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  • 映画を少しばかり外から眺めてみるそのカタチ

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    ついにスピンオフのスピンオフ
    もはや驚きはないが、ついに(映画史上どうなのだろうか?)『踊る-』がスピンオフのスピンオフを出すことになってしまったようだ。
    「踊る大捜査線」シリーズから、またも新しいスピンオフ(派生)作品が誕生することが19日、分かった。ユースケ・サンタマリア主演映画「交渉人 真下正義」の脇役「木島丈一郎警視」が主人公のスペシャルドラマが12月上旬にフジテレビで放送される。木島警視は、映画と同じ寺島進(41)が演じる。このキャラクターは「交渉人-」で初登場。スピンオフからスピンオフした“孫番組”ということになる。
    Excite エキサイト : 芸能ニュース
    映画よりも、数字を取るのが近年とんと厳しくなってきているTVドラマ界へのリリースということで、興行や動員数よりも、視聴率という数字に挑戦をする形になるのだろう。というよりも、むしろ、映画のビックスクリーンではなく、満を持してTVのスモールスクリーンへ『踊る-』シリーズが帰って来たということかな。

    注目すべきは、いわゆる本店の話になるのだろうけど、ストーリーをTVドラマの枠としてどのように構成してくるかであろう。うまく、所轄との絡みを入れて『踊る-』王道の↑と↓という二項対立に持っていくのか、それともたたき上げで階段登ってくるまでの軌跡なのか。少なくともコンプレックスを抱えつつ東大閥寄りな室井よりも、全くたたき上げ丸出しな木島のアイデンティティも見所だ。たたき上げということをキーにするなら、和久さんや『THE MOVIE』で誘拐された副警視総監(?)などとの関係やエピソードなんかも語られそうだ。『交渉人-』のような薄い構造になってしまうとしたら、これからの『踊る-』シリーズに影響がでるのは必至だろう。そういう意味では、これからのスピンオフのスピンオフを占う製作となりそうだ。
    Depper

    # by Corin_Depper | 2005-09-22 11:04 | 雑記
    『シンデレラマン』についてのレビューと考察
    『シンデレラマン』についてのレビューと考察_e0039500_21145217.jpg勢いで劇場へ見に行ってから中々すぐにレビューを書く時間的ゆとりがなくなってしまって、時間が空いてしまいましたが、まだまだネット上にも個人的なレビューが活発に出回ってきているでしょうから、まだ時期を逸していないといいのですが・・・。総評として、いわゆるオスカー狙いのハリウッド映画が陥りやすい「欲張りすぎた映画」になってしまったのかな、というところでしょうか。つまり、より多くの観客を引き付けようとする余りに個々では魅力的な要素なのですが、集合としてかみ合いきれずに飽和状態になってしまっている感がありますね。『パールハーバー』などよりは全く軽症ですが。裏を返すと、「優等生的な映画」でもあるように思います。特に目新しい冒険をする(=リスクを冒す)わけでもなく、かといって明らかに批判の的になるようなところもなく。予定調和と言ってしまうとそれまでですが、全体的にはうまくまとまっていると言うのが適当な印象でした。

    ひとまず、前回のエントリー記事で挙げた疑問点から解決しようかと思います。

    ① について、『シービスケット』との比較はアメリカの映画批評誌「Variety」の冒頭部分で扱われていました。もしかすると、それをそのまま・・・。ともあれ、Variety誌の記事では、なぜ比較せざるを得ないかが明記されていました。つまり、映画の物語上で描かれる主人公ブラドックの人生の浮き沈みとその軌跡が、『シービスケット』と酷似するとのこと。物語の抑揚と構成ですね。

    ② について、レネー・ゼルウィガーの役どころと彼女の持ち合わせる個性がやや不一致であることは否めませんでしたね。むしろ貧しさやそれによる惨めさを体現できずにいるように見えました。メークや衣装が全く小奇麗なままだったので。あとはあのふっくらした健康そうな顔立ちはどうしても相反してしまっているように思います。役どころは女性の観客を一心に捉えなければならない役です。逆に女性客層を多く取り込もうとしすぎたせいで、ミスキャストに始まり、プロットの焦点もぼけます。例えば、ボクシングのプロットに集中したい人などは女性代表かつ妻であるメイ役ゼルウィガーを描くシーンはジャマに思えてしまうでしょう。演技云々は個人的にはほとんど違和感を覚えませんでしたが・・・。

    ③ ネオリアリズムについて、例え指している物がイタリアのネオリアリズム映画であったとしても、とりわけ当てこする意義はないように思います。これには、正にその通りなコメントを頂いたので引用します。

    「貧しさの中の屈託のないユーモア」というのはデ・シーカの作品あたりを指しているのかな?と思ったのですが、それでもそれらの作品においては戦後の絶望的な状況の中で、そして救いのないエンディングの中でそれらのユーモアが力のある表現になってくるわけで、ボクサーが昔の栄光を取り戻す、というある種予定調和的な作品に、また「貧しさをみじめに強調するばかり」の演技を良しとせずに求めるのはちょっと違うのではないかな、と思ったのでした。またネオレアリスモは「貧しさ」や「屈託のないユーモア」といった「中身」の問題だけでなく、「スタジオではない現地での撮影」や「素人を役者として使う」いった「様式」のムーブメントでもあったわけですから、そういう意味でも引用文の中のネオリアリスモの扱いには疑問を持ったのでした。


    さて、次に少々全体の構造について考えたいと思います。
    冒頭で「欲張りすぎた映画」と銘打ちましたが、理由の一つはすでにゼルウィガーとその役柄についてのところで述べました。この映画の基本的なナラティブの構造は主人公をジム・ブラドックとした時には3本柱です。この3本が実際にはうまくバランスを図られて構築されていたように思いますが、実際にどこに集中してよいかわからず混乱を招くという原因にはなったのだと思われます。

    ① 父親としての(アイデンティティ確立の)物語
    ② 夫としての(アイデンティティ確立の)物語
    ③ ボクサーとしての(アイデンティティ確立の)物語
    『シンデレラマン』についてのレビューと考察_e0039500_21144928.jpg

    実際の伝記も読んでないですし、実在したジム・ブラドックについてはわかりかねますが、映画の中の彼はこの3者に対して何時いかなる時も背を向けず、最終的に全てのアイデンティティを確立し通した、という物語です。

    ① に関して、これは家族を飢えさせないという状況を再構築できた時点で物語としての推進力は薄れていきます。そして①を満たすことで最終的に③と向き合うことができるようになるわけです。

    『シンデレラマン』についてのレビューと考察_e0039500_21183715.jpg② に関して、映画の中ではボクサーとして闘えなくなり、生活が窮することで夫婦として今までの装飾がはがれ、向き合う形になります。折らなければならないことだらけな中で、どんなに貧しくとも夫としてのアイデンティティの最終ラインは絶対に割らせないという妻を演じるのがゼルウィガーです。そして妻が③を確立する上での最後のキーという役割を持っています。

    ③ に関して、夫としての対面するのは妻ですが、ボクサーとしてはセコンドであるジョー役のジアマッティ。ある種、男の友情物語です。描かれ方としてはやや奇薄ながら、ジョーはスクリーン上ではリングに一番ちかい観客をして我々にスクリーンの向こうの空気と臨場感を伝える役目を負っています。ボクサーとしてということは多分に男としてのアイデンティティとも言えますが、ジョー無しではセカンドチャンスをもらえなかったわけです。最終的な確立はチャンピオンと真正面から対峙し、倒すことで自分がまた栄光のチャンピオンベルトを奪回してなされるわけです。そしてこの予定調和的なプロットは①と②を抱き込むことによって骨太なプロットにするというコンセプトだったはずです。

    よく言えば、この3本柱は比較的バランスよく描かれ、互いがプロットとしてよく絡み合っているという感じもします。本来は③がメインプロットなのでしょうが、①や②のサブプロットに厚みを持たせることで、より多くの老若男女を客層として取り込もうとしたばかりに、結果として3本柱になってしまっているとも受け取れます。3本丸々3本として楽しめるのならいいですが、3本になってしまっていることで、逆に観客がどこに焦点を当てて観ればいいのか迷わせてしまう結果となってしまったのかなとも思います。

    補足として、主人公ジムが最後に挑むチャンピオン役マックスをただの勧善懲悪的ヒール役に貶めてしまうのではなく、彼にキャラクター(顔)を持たせることで、ジムとマックスとのある種友情にも似たライバル関係に発展させようという試みが前面に出ていましたが、いかんせん、既に2時間を越える長さになっており、描ききれていなかったという印象も与えてしまう完成度でした。ボクサー2人を並列に描くことで、ボクサーの商品化され消費されるいずれ戦えなくなった時がお払い箱という宿命的な悲哀とそれに対するお互いのシンパシーが入り混じるところまではよく出ていたと思います。ただ、このサブプロット的な描写も線になるほど濃くなかったので、もしかすると、観客の視点を惑わすだけという形で作用してしまった可能性は否めないと思います。

    最後に歴史的バックグラウンドと主人公の人生とのシンクロですが、これを完全に消費できるのはその時代を生きたアメリカ人だけかもしれません。ジムは、アイリッシュ系移民ですが、最終的に貧しい生活を強いられている移民者たち全体の希望であり代表として描かれます。日本語ではよく「貧困に打ち勝って」だとかいう表現が前面に出されていますが、プロット上そこが最重要要素ではないと思います。逆から読めば、経済的弱者を背負うことでより多くの観客層を獲得しに行く姿勢が表れていますし、国自体の経済的恐慌とシンクロさせることで、「成せば成る。チャンスをつかめるのがアメリカだ。」というアメリカンドリームの発露的なモチーフを映画に付与するものだと思います。

    『シンデレラマン』についてのレビューと考察_e0039500_21192451.jpg蛇足:ジェンダー的に見ると、どん底に耐え続け、そこから這い上がったその姿に「シンデレラ」という冠が付けられるわけですが、いわゆる男として、父として、夫として成功した「理想の新男」として見た場合に、「シンデレラ」という女性的な冠を拝して初めて成せるのかなと。冒頭に登場するラッセル・クロウの姿はなで肩で顔も丸く、いかついマックスとは非常に対照的です。まぁ、シンデレラストーリー=ハッピーエンドなので、タイトルから予定調和が始まると言ってしまうとそれまでなのですが、その予定調和をうまく壊して再構築仕切れなかったところが、興行にも響いているのかなとも思います。得てして、オスカー狙う映画ってのは必ずしも興行が爆発的に伸びる必要もないですからね。


    Depper


    参照:
    Varietyレビュー
    Eiga.comレビュー

    # by Corin_Depper | 2005-09-21 21:20 | レビューと考察
    『シンデレラマン』について
    『シンデレラマン』について_e0039500_2305954.jpgこの間の一件からなぜか気になって仕方が無いこの映画『シンデレラマン』、今日も何気なくeiga.comの映画評を読んでしまった・・・。


    ・・・???


    とりあえず引用します↓
    「遥かなる大地へ」「アポロ13」「ビューティフル・マインド」……アメリカ史の断片を切り取ってきたロン・ハワード監督による伝記映画で、1930年代大恐慌の真っ只中、極貧に身をやつしながらも、ボクシング・ヘビー級王座に挑戦したジェームズ・J・ブラドッグがボクサーとしての栄光を取り戻すまでを描く感動の実話。①競馬界の奇跡の名馬「シービスケット」の活躍と同時代な点が興味深い

    ボクシング映画にはハズレがないが、この拳闘シーンは撮影・編集とも出色で、「レイジング・ブル」級のド迫力がある。カメラのフラッシュの光、血しぶき、汗が交錯するリングでの熱い“火花”は、「グラディエーター」同様に、奥歯を噛みしめたくなる。

    不屈のボクサー役のラッセル・クロウ、マネージャー兼トレイナー役のポール・ジアマッティのオスカー級の名演に酔う!

    大恐慌時代の極貧生活は、ミルクを水で薄めて幼い子どもたちに飲ませるほど悲惨で、父は“ミルク”を求めて闘うのだ。こうした苛酷な現実がクライマックスの感動への伏線となるが、ただひとつ、②妻(レニー・ゼルウィガー)の態度が貧しさをみじめに強調するばかりで、感動を薄めているのが残念だ。男たちのヤセ我慢ぶりが心を揺さぶるだけに……。③伊ネオレアリスモの名画に通底する貧しさの中にある屈託のないユーモアがもっとあったなら、映画史上の大傑作になっていただろう
    (佐藤睦雄)

    ①歴史的背景としてどの国でも「激動の時代」は持って来いのプロットの常套的基盤。その時代を扱った映画は山ほどあるが、『シービスケット』を挙げた理由はどこ?

    ②レニー・セルウィガーの演技が名演でなく酔えず感動を薄めるという根拠が・・・男たちのヤセ我慢ぶりが心を揺さぶるだけっていうのが・・・すごくジェンダーとして偏った「男性的視点」臭漂うよ。。。プロットの感動を薄めてしまう演技をした彼女の役柄の機能はそれだけ?それがメインの役柄なのでしょうか。それが理由で称賛できない演技になっているのでしょうか。

    ③(無知なので)とりあえず、その名画に通低する貧しさの中にある屈託のないユーモアがあるという前提で、個人的意見として、それがあったらなかったらこの作品の評価が変わったかどうか言う必要性があるの?それがないから傑作ではないということが言いたいのでしょうか。

    映画評を読めば読むほど映画のイメージが沸くというよりはむしろ混乱してしまうのは私だけでしょうか?公式を見ると興行的にオスカーを狙える大作として宣伝されているので、(勝手に自己の旧弊なステレオタイプで)予期・期待したものとズレがあったことに対するアレルギー反応が出てるものと思わるのだけど、せめて何故?何処が?ズレたのかを少しでもわかるような表現があればよりわかりやすいのだけれど・・・。




    『シンデレラマン』について_e0039500_2365297.jpg




    "Very Dark Side of Strong Force Here"




    ・・・ということで、劇場へ今から行って見て来ます。

    ほとんど劇場へ行かずDVDリリースを待つ私を引きずり出すのだから、ある意味今回見てきた『シンデレラマン』の映画評の力はすごいのかもしれない・・・
    Depper

    参照:
    公式:http://www.movies.co.jp/cinderellaman/
    映画評:http://www.eiga.com/review/cinderellaman.shtml(eiga.com)
    データ:http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=321979(allcinema online)
    # by Corin_Depper | 2005-09-16 22:58 | 雑記
    『Takehis’』 in ロンドン映画祭2005
    ベネチア国際映画祭を騒がせ、カナダのバンクーバー国際映画祭へ正式出品が決まり、そしてそのたすきをつなぐかのように来る10月19日から開催されるロンドン映画祭へも正式に出品され上映プログラムが発表された。(詳細は記事下の参照リンクへ)
    『Takehis’』 in ロンドン映画祭2005_e0039500_2235248.gif

    『Takehis’』 in ロンドン映画祭2005_e0039500_23047100.jpg長い欧米各国の行脚を終えてそのたすきは最終的に母国日本へ帰る。10月20日都内某所でジャパンプレミア試写が行われることになったらしい。(これも詳細は記事下の参照リンクへ)そして、最終的に11月には一般公開となる『Takeshis’』。ある程度予想はしてるが、日本での反応も楽しみだ。
    Depper

    公式:
    第49回ロンドン映画祭

    参照:
    『TAKESHIS’』上映プログラム情報 in London
    『TAKESHIS’』ジャパンプレミア試写会情報 in Japan


    雑記:
    トニーレインズが『Takeshis’』の上映プログラムのところに解説を載せていますが、「Doppelgängers(ドッペルゲンガー)」という言葉を使っていたので、少し調べてみたところ、やはりドイツ語だけあって、ドイツ語のレビューで使われていました。英語で言うと「Alter Ego」とかになるんでしょうけど、トニーはあえてドイツ語を選んでいますね。もしかすると、これから「北野武とビートたけし」の二者共生関係を表す単語としてよく使われることになるかもしれませんね。初期は北野映画を指して「Idiosyncrasy(特異性)」が代名詞代わりでしたが、今やわざわざそういう必要もないというところまできていますので、やはり新しい代名詞に取って代わられるのかもしれません。
    Depper

    # by Corin_Depper | 2005-09-16 02:34 | Newsアーカイブ
    映画評論家による映画レビューへ問いかける
    現代シネマ倶楽部 シンデレラマン [ゲンダイネット]

    の記事に書名付きで書かれています。どのような読者を想定しているのかわからないのでなんとも言えませんが、映画評論家という肩書きを持ってして書く必要のある文章なのでしょうか。この記事枠は彼が見た映画について個人的感想を吐露するものなのでしょうか。とりわけ批判的な態度に出たいわけではないですが、どうしても引っかかってしまったので。押さえるポイントなどは悪くないんですけどね。とりあえず、引用↓です。
    だって、しょせん“ファミリーマン”じゃん。ボクの中ではよ、往年の「傷だらけの栄光」にしても「レイジング・ブル」にしても、強くてワルじゃなきゃボクシング映画魂に響かない。それか、今年の「ミリオンダラー・ベイビー」みたいに家庭と縁薄き悲痛なドラマとかね。こんな家庭人のボクサーなんて、はっきり言って映画として魅力が乏しい。“家庭至上主義”の米国の風潮に迎合するような内容だ。ボクシングシーンはさすがに迫力があるが……血が騒がない。
    家庭至上主義の米国の風潮であることがわかっているのならば、なぜボクシングとそれが合わないのかを解説して欲しいところです。例えば、そういうアメリカ的イデオロギーが激動の大恐慌時代を歴史的バックグラウンドとする物語に挿入された時、そのカタルシスがボクシングという映像・表現で体現されたとき、どこに違和感があったのでしょうか。往年のボクシング映画の有名どころを挙げるくらいなら映画好きの人なら朝飯前でしょう。日本で言えば時代劇にあたるような古い歴史的なテキストに現代のイデオロギーを体現させるという手法はいわゆる現代映画では常套であり、大きな風潮で、多くのブロックバスター映画を生み出していますが、そうならなかったこの映画にはどこにズレがあったのでしょうか。

    「映画としての魅力が乏しい」とありますが・・・、消化できないので言わせてもらうと、「あなたの映画評論家としての雄弁さが乏しい」ように感じてしまうのは私だけでしょうかね。紙面上文字数も制限されてるのでしょう、そこで言えることは限られているはずです。ならば、そこで否定的な私的コメントを並び立てることよりも、伝えるべきがあると思うのですがね。ポーリンケール的志向の私だからそう思うのでしょうか。すごく食傷気味です・・・
    Depper


    # by Corin_Depper | 2005-09-14 00:11 | 雑記