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  • 映画を少しばかり外から眺めてみるそのカタチ

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    『武士の一分』上映前先行観察
    『武士の一分』上映前先行観察_e0039500_23524652.jpg冬に公開だと思っていた山田洋二監督作品時代劇三部作の三作目『武士の一分』が10月21日から行われる東京国際映画祭のオープニング上映作品となったようです。個人的にはそれなりに思いいれ、といいますか、ぜひ劇場鑑賞をしてこれまでの山田監督時代劇二作品をふまえて分析をしてみたいな、と思っている作品。それが思いのほか早く世に出るということで、楽しみです。きっと、先行上映ということになるので、それなりのアウトプットが出てくると思われますし、ある種現代映画の分析はその作品の最初の上映とそのレセプションから始まるので、出てくるレビュー分析を楽しみながら公式上映を待ちたいと思います。

    がしかし、最初の上映が東京国際映画祭のオープニングというのがやや気になりますね。これは果たして喜ばしいことなのかどうか。個人的に東京国際映画祭と銘打っての運営実行にあまり好意を抱いていないのでそういう思考になってしまうのかもしれないけれど、果たして他国の主たる映画祭とは種を異にし、国際的に(買い付け探しの)映画作品宣伝PRに特化されていると認識されている映画祭のオープニング(象徴)となることがそれほど諸手を挙げて喜べる状況なのだろうか。もちろん過去の二作品と同じく世界的にも注目を集めているであろう三作目の『武士の一分』。さて、その興業はどうなるのでしょう。ある意味楽しみにしたいと思います。

    『武士の一分』上映前先行観察_e0039500_2353921.jpg最後に一つ、珍しい宣伝手法を目にしたので、それについて。それは、映画のフライヤー。よく劇場に置いてある宣伝チラシみたいなものですが、大抵は一種類ですが、『武士の一分』は二種類ありました。この記事上の二つの画像がそれです。一つは非常に暖かい色使いのバックに一本の枝に文鳥二羽。もう一つは非常にディープフォーカスされフレーム際立つ和の建物の屋内ショット。こちらには両脇上部に大きく監督名と木村拓哉の文字。これだけで非常に多くの配給・製作側目論見と計算がわかりますよね。いずれまた、次回の記事にでもこの二種類のフライヤー考察もすこし詳しくしてみたいと思います。
    Depper



    参照:
    公式HP『武士の一分』
    http://www.sanspo.com/geino/top/gt200609/gt2006091313.html(SANSPO.COM)
    # by corin_depper | 2006-09-13 22:59 | Newsアーカイブ
    『男たちの大和』レビュー
    『男たちの大和』レビュー_e0039500_19384042.jpg個人的な予想を反して結構な興業となったこの映画ですが、先日DVDで鑑賞して意外と面白い構造をしていたのでまとめてレビューします。

    戦闘シーンにCGなどやロケで相当豪勢に大枚がつぎ込まれたことは容易に見て取れ、それなりに感心しましたが、注目したのは主に戦時中の回想部分ではなく、時勢で言うと現在の部分のシーンでした。結論から言いますと、この映画はある意味で「男たちのらしさへの回帰とバックラッシュ」なのではないかと考えさせられたわけです。「男たち」の部分をそのまま「ナショナリズム」と代えて見る事もできると思いますが、これはもうアーロン・ジェロー氏の後追いなのでやめておきます。

    戦時中の大和とその乗組員をめぐる回想のお話しがナラティブの軸でありまたドラマツルギーの主要な部分であることははっきり見て取れますが、全体としてのナラティブの構造はその回想はある一人の男(仲代達矢)の実体験の記憶を通して回帰されたものでして、その回帰を促すのは父の過去に触れて向き合うために来た女性(鈴木京香)なわけですね。そして物語りの最終的な帰結はその男が救済をされるという形で終わるわけです。戦争へ行った世代がその子供の世代の、ここが注目すべきところですが、女性によって救済がなされるわけですよ。

    『男たちの大和』レビュー_e0039500_20163675.jpgそして更に面白いところは、戦争へ行った男と戦争へ行った父を持つ娘、それに大いに触発されるのが戦争へ行った世代の孫の世代にあたる15歳の少年なわけです。一つの小さな船に乗って大和に会いに行く、この三者の構成が、3世代によって構成されているわけですね。例えば、最後に少年が船の舵を握りますよね。それはあたかも大海原に浮かぶ島、日本の舵をにぎったように見えたのは私だけでしょうかね。戦争に行った世代は次の世代の女性に救済され、それをまた次の世代の少年に受け継がれていく。ジェンダーで追えば、男→女→男なわけです。戦争に行った世代の男のイデオロギー(主に男らしさ)を2世代後の男へと継承される。そしてその媒介となるのが間の世代の女性。この辺が、この映画をジェンダーという視点で追ったときに非常に興味深いなぁと思わされた所以でした。

    言ってしまえば、この映画のお話は戦時中の回想シーン無しでも成り立つ、そういう構造になっているわけでして、海の上のこの三世代にわたる三者の物語なわけですよね。しかし、映画的なスペクタクルを回想シーンが請け負う、意外に秀逸な構造となっているわけでした。もちろん3世代を出すことによって、各世代の観客層の感情移入ポイントを作るという上でも非常に優等生的なやり方ではありますが、更にジェンダーで見たときに更に興味深いやり方をしているなぁ、なるほど、それなりの興業を上げるわけだとある種納得をした鑑賞となりました。

    さて、この映画を「戦争映画」として括って見るとまた全く違ったレビューとなってしまうわけですが、それは長くなるので割愛ということにしまして、最後にレーティングのことについてすこし。

    見たところ、この『男たちの大和』に映倫はレーティングを行っていないようですが、そうなんでしょうか?もしレーティングをかけていないのであれば、すこし考えさせられてしまいますね~。というか、日本のレーティングらしいといいますか。まず、映像的なバイオレンス度で言えば相当高い部類に入ると思いますし、その描写は見ていて『プライベートライアン』を想起させられたわけなんですけど、見てみると日本で『プライベート』はレーティングないようですね。あー、なるほど、と思うと同時に、『バトル・ロワイアル』がR15にレーティングされた記憶も蘇ってきまして、その映画の暴力的描写と『男たち』のそれとそんなに違うものかと言うことも考えさせられました。これ以上は日本の映倫とレーティング議論になってしまうので、気が付いた点としてここまで。
    Depper


    参照:
    「Fantasies of War and Nation in Recent Japanese Cinema」by Aaron Gerow
    『男たちの大和』公式HP
    # by corin_depper | 2006-09-07 20:33 | レビューと考察
    スピンオフのスピンオフ、再び!
    『踊る大捜査線』シリーズに新たな一作が加わるようです。体系的には映画『交渉人 真下正義』から派生した単発TVドラマ『逃亡者 木島丈一郎』と同じカタチで、映画『容疑者 室井慎次』から派生する単発TVドラマの『弁護士 灰島秀樹』となります。詳細は以下のとおり。

    「踊る-」からまた派生作品 [ 09月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

    スピンオフのスピンオフ、再び!_e0039500_1822829.jpg「踊る大捜査線」から、また新しいスピンオフ(派生)作品が登場する。柳葉敏郎主演映画「容疑者 室井慎次」(05年公開)で八嶋智人(35)が演じた弁護士を主人公にしたスペシャルドラマ「弁護士 灰島秀樹」が10月28日にフジテレビで放送されることが1日、発表された。スピンオフ企画は4作目。シリーズ開始から来年で10年を迎えるが「踊る-」人気は脇を固める個性派キャラクターにより広がり続けている。

    新作ドラマの主人公、灰島秀樹は、警視庁管理官の室井を徹底的に追い詰める弁護士。映画「容疑者 室井慎次」で初登場したキャラクターだ。灰島を演じる八嶋は、これがドラマ初主演。脇役から一転して脚光を浴びることに「『室井』の会見の時は、この流れとは関係ないから、スピンオフもへったくれもないと思っていた。新作を作ってもらえるなんて、うれしかったですね」と、手放しで喜んだ。

    「踊る-」シリーズのスピンオフ企画には、ユースケ・サンタマリア主演映画「交渉人 真下正義」を皮切りに、「容疑者-」、寺島進主演スペシャルドラマ「逃亡者 木島丈一郎」がある。映画は2本とも05年邦画興行収入ランキングトップ5入り。「逃亡者-」も視聴率15・6%と大健闘した。

    新作「弁護士-」とともに、スピンオフ企画計4作品が、フジテレビで一挙に放送されることも発表された。この日、4作品の主演俳優がそろって会見に出席。亀山千広プロデューサーは「この4兄弟を見ていると、何かやりたいと思う。いいメンツですからね。警察権力か分からないけど、何か考えたいと思います」と、新企画も示唆した。

    「踊る-」にはさえない管理職のスリーアミーゴスやマドンナの雪乃など、脇役キャラクターも魅力の1つだった。今回は警察を追い詰める“敵役”まで主人公にした。「踊る-」の世界は広がり続けるが、ファンが待望している織田裕二演じる青島刑事の新作の情報はいまだ聞こえてこない。

    メインはテレビと映画で、スピンオフは映画で、スピンオフのスピンオフはTVで、という棲み分けがとっても合理的、というか計算的ですね。もしスピンオフのスピンオフのスピンオフが生まれるとしたら、電波に乗せることなくDVDだけとかなのかな(笑)。

    ただ、初めて主人公が警察外の人物になるとのことで、物語的に他の踊るキャラクターとどう絡んでくるのか…。灰島弁護士の過去を物語にするのは無理がありそうなので、時間軸的には『容疑者 室井慎次』後を設定したものになるのでしょうかね?

    とりあえず予約、予約っと。
    Corin

    参照:
    Excite エキサイト : 芸能ニュース “「踊る-」からまた派生作品”(日刊スポーツ)
    Excite エキサイト : 芸能ニュース “八嶋智人が弁護士役でドラマ初主演―「踊る」スピンオフ第4弾”(サンケイスポーツ)
    Excite エキサイト : 芸能ニュース “「踊る」番外編第4弾は八嶋主演”(スポーツニッポン)
    # by Corin_Depper | 2006-09-02 18:36 | Newsアーカイブ
    『ゲド戦記』―下請けスタジオにみるジブリの行先
    先週Depperがいろいろな視点から細かく分析をしてくれましたが、引き続きワタクシCorinが映画の外側から『ゲド戦記』の位置を確認したいと思います。

    『ゲド戦記』―下請けスタジオにみるジブリの行先_e0039500_2337924.jpg率直に『ゲド戦記』を見た感想を言うと、凄く深夜アニメっぽいと。言い換えれば、ジブリがこだわってきた「アニメーション -Animation-」ではなく、「アニメ -ANIME-」っぽいなぁと思ったんです。それはきっと、Depperの説明にあるような『ゲド戦記』のなかの「個人が抱える死との対面」とか、「死に対する恐怖やそこからくる葛藤や苦悩」というテーマが、深夜アニメ(もしくは青年~大人にターゲットオーディエンスを絞ったアニメ)のそれとダブって見えたからだと思うんです。んで、最後エンドロール見ながら一つ気が付いたことがあるので、それについて今日は書きます。

    気が付いたことっていうのは、制作の下請けプロダクション・スタジオについてなんですが、そこに気になる2つのスタジオ名があったんですよ。その一つ目が「ゴンゾ」。この会社は現在公開中の『ブレイブ・ストーリー』でその名を日本中に知らしめた会社です。もう一つが「ガイナックス」。この会社は脱税でも有名ですが、『ふしぎの海のナディア』を経て、『エヴァンゲリオン』で飛躍的に伸びた会社です。この2つのアニメ制作スタジオが、ジブリと一緒に仕事をしていることが、私には非常に違和感だったんです。だって、確か宮崎駿はベルリン映画祭で金熊賞を獲ったときか何かの機会に、「他の日本の“アニメ”とは一緒にしないでくれ」という旨の発言をしていて、スタジオジブリがそれらのスタジオと手を組むとは想像すらしていなかったから…。

    『ゲド戦記』―下請けスタジオにみるジブリの行先_e0039500_23464970.jpgところが、調べてみたらびっくり。「ガイナックス」は金熊を獲った『千と千尋の神隠し』の下請けに名を連ねているし、「ゴンゾ」は『ハウルの動く城』でデジタルアニメーションを担当していました。そして今回の『ゲド戦記』では、その両方が制作に参加。新しい、しかも上記のような大手スタジオが制作に加わるとなれば、一方で古くからジブリの下請けをやっているスタジオの参加は少なくなってきているはずです。そうすれば当然、見慣れたジブリの画とは違うものが出てきてもおかしくはない。そしてその「違和感」もしくは「非統一感」がこの『ゲド戦記』では表面化してしまった可能性があると言えます。


    宮崎駿の目指したジブリ作品が純血であるとすれば、吾郎氏の作った『ゲド戦記』は非常に混血的なものと捉えられるでしょう。もちろんそれがいいか悪いかはわかりません。ついでに初めて知ったことがあるのですが(とっくに知ってるよって方はごめんなさい…)、スタジオジブリは劇場版攻殻機動隊『イノセンス』(押井守監督/2004年)にCo-Productionという形で堂々とその名を表に掲げています。この事実から言える事は、スタジオジブリという会社自体も混血化の道を好んで辿っているということでしょう。どうなるのかなぁ、ジブリ作品とスタジオジブリの未来。どこへ向かって行くのでしょうかねぇ。
    『ゲド戦記』―下請けスタジオにみるジブリの行先_e0039500_23495933.jpg
    Corin

    公式:
    スタジオジブリ 『ゲド戦記』

    参照:
    http://kozoism.exblog.jp/4020727/
    Gonzo (ゴンゾ)
    Gainax (ガイナックス)
    Production. I.G
    # by corin_depper | 2006-08-27 23:50 | レビューと考察
    『ゲド戦記』考察
    『ゲド戦記』考察_e0039500_2151415.jpgようやく何かと騒がれているジブリ最新作『ゲド戦記』劇場鑑賞してまいりましたので、ここで少し考察をしてみたいと思います。結果として、不評をかってしまっているメカニズムが曲がりなりにも検証されていればいいかなと。きっと長い記事になってしまうと思いますが、気長に読んでもらえると幸いです。

    まずは印象・感想から。
    久しぶりに劇場にメモ帳・ペンを持って映画鑑賞をしましたが、「何してるの、この人?」という痛い視線にもめげずにポイント、ポイントは押さえて参りました。観終わってまず、抱いた感想は、「宮崎駿氏が立腹するのに合点」ということですかね。決してマイナスな思考で観たわけではないんですが、少し寂しい出来ではありましたかね。それもこれもやはりジブリ作品という強烈なブランドイメージとの差異がそうさせるのでしょうね。

    そして、次にこの作品『ゲド戦記』に対する問題提起をしたいと思います。最終的にここに帰ってくると思うのですよ、どういう分析をしようとね。そしてこの問題提起は今後のジブリブランドと今回初監督をした吾朗氏への問いかけにもなると思います。

    それは、
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」ということです。この位置づけの仕方によって、最終的な評価が大きく変わってきてしまうように思いますね。ただ、今回この考察記事でその答えを前提にすることはしません、むしろ問題提起のままという姿勢で行きたいと思います、なるべく中立的な立場でしたほうがこの記事を読んでくれるみなさんに核心に触れてもらいやすいかな、とも思いますのでね。

    さて、最初にまず前回鑑賞前に疑問点を「寸感」として書いた記事に対するすり合わせからしてみようと思います。興味のある方はそちらから読んでみてくださいまし。(前回記事:『ゲド戦記』寸感

    疑問点①
    「ジブリアニメ作品=宮崎駿作品という強烈なイメージとの誤差」

    これは最初に述べたように、作品全体のイメージとしてこれまでのジブリ作品の持つ世界観や表現手法、それを体現する重要な要素等を見てみると、「誤差は小さくない」と言わざるを得ないでしょうね。問題提起の部分にも関わってきますが、世界観、表現、ジブリ作品要素もしくはブランド要素いずれをとっても、逸脱しております。では、どこが、どう、という詳細部分は以下で述べたいと思います。

    疑問点②
    「主人公と配役」

    ここにも重要な逸脱がありました。これは作品の物語の部分と大きく関わってくるので、詳細分析は以下で行いますが、配役の構造は180度異なると言えますね。

    疑問点③
    「シュールかつ内省的な精神世界感とナラティブ構造」

    この疑問点に細かく応えることが、きっと考察のメインになるのですが、決してシュールでもありませんでしたし、内政的な精神世界表現が強調されているというわけでもありませんでした。ただ、ナラティブの構造、ここを紐解いていくと、疑問点①へ帰るということになりますかね。この疑問点に関しては個人的予想とは少し誤差が大きかったように思います。

    前置きが長くなってしまいましたが、映画の中身、概して物語・ナラティブ構造を中心に細かく考察してみたいと思います。


    Intermission
    『ゲド戦記』考察_e0039500_17392530.jpg


    まず、これは映画の外、特に製作部分に関わってくる話ですが、アニメーション自体について少し。アニメーションの質というべきか、手法というべきか、表現方法というべきか、わかりませんが、とかく統一性がありませんでした。ある画はとても細かく、そしてある画は「ナウシカ」時代を思わすような平面的なで簡素な画。おなじ人物や背景をとってもシーンによって違うのですね。たとえば、水関連の画。オープニングは非常に原始的で平面的な簡素なセルアニメーションの画。そして同じ海のシーンでも今度は明らかにCGを駆使した透明感あるきめ細かな3Dの画。もう一つ顕著なのは、背景もそうですね。基本的に、背景に関しては細かく描写された画が多かったように思います。しかし、これにもばらつきが観られましたね。キャラクターはともかく、背景などは視覚的な世界観を作るうえで重要となってきますから、ここの表現が統一されていないと、観る側はなかなか世界観を捉えるのに苦労しますし、無意識であっても情報は受けるわけですから、なかなか集中して自己を作品世界へ移入させてもらえないのではないでしょうか。そうすると、なかなか主観的に鑑賞させてもらえない、そしてより客観的に距離を置いて見ざるを得ない。客観的に観ると言うことは、えてして批評的な立場で見る傾向に至ってしまうのではないでしょうかね。これまでジブリ作品にどっぷりと浸かって見てきた観客にとっては突き放されるイメージや感覚があったのではないでしょうか。更にはすでに不評が飛びかってしまっている現段階でそれを予備知識に見る人たちはなお更ではないでしょうか。この画とその表現に統一性があったならば印象や作品イメージは大きく変わってくるのかもしれないな、と観出して数十分で思う、という体験でしたね。

    次に作品の時間的流れと空間について。Time and Spaceと呼ばれるやつですね。これも作品の物語世界観を捉えるためには重要になってくると思いますが、この時間と空間を把握するのが非常に難しい。時間の流れ自体は前後していないことはわかりますが、イベントからイベントまでどれくらいの時間が経っているのか、どう飛んでいるのか、など。空間も、点でしかなく、どれくらいの距離があるのか、同じ空間でも方角の感覚を非常に掴みにくい。これはエスタブリッシングショット、つまり空間を把握させてくれるショットに方向・方角性の統一がかけているために起こるのですがね。つまり、時間や空間を把握するための、記号もしくは情報が著しく欠如しているわけです。そこをある意味シュールと呼んでしまうとそれまでですがね、こうした時間や空間の連続性の欠如はやはり観るものの視点と感覚を遠ざけてしまうように思います。

    お次は、少し物語り・ナラティブ構造についてですが、まずは主人公にまつわる考察から。この作品の主人公は誰でしょう?誰がいるから物語が動くのでしょう?これに瞬間的に答えられる人がいるでしょうか?では、質問を変えて、これまでのジブリ作品で主人公を瞬間的に答えられない作品がありますか?この作品ではどう観てもこの人物が主人公という配役がなされていない。つまり、誰の物語であるのかが非常に分かりにくいわけです。強いて言うならば、3人居るといっても過言ではないでしょうね。もしくは3つの物語が重層的に絡んでいるとも言えるかもしれません。物語をぐいぐいと進めて行く、推進力になっている人物が居ないのですね。ジブリ作品の多くは『ラピュタ』然り、『もののけ』然り、『千と千尋』もまた然り、女の子が主人公でそれをペアになる男の子が存在するわけです。もしくはその逆というのもありますかね、『紅の豚』などはそれです。「ペア」、これが基本です。そのどちらかが物語りをぐいぐい進めて、ペアのもう一人はそれを助ける。時には進める手助けをする、時にはその一人が居ないと進まない。ペアのつながりが非常に強いからです。二人の主人公と言ってもいいのですが、少なくとも物語の視点はどちらかに依存するはずです。ところが、この『ゲド』では、この辺が判然としない。最初は男の子が物語を進めのかと思いきや、突然物語の推進力はこれまでのジブリ作品であったらサポート役のはずのおじさまに取って代わる。そして最後の最後にすべての物語の推進力は実は女の子であったりするわけです。これは、終わってみてあーなるほど、とはなりますが、観ている最中での感覚は、え?、の連続なはずです。ここにも過去のジブリ作品(主に駿氏の作品ですがね)とは一線を画すわけです。決して多重視点と主人公が悪いわけではありません、がしかし、これまでのジブリ作品というイメージと経験が邪魔になるのですね。3者の物語があるために、各々の物語のための因果関係が存在しますし、物語視点の切り替えがうまく行えない場合は、この因果関係の把握が難しくなります。今、誰の物語を語られているのか、どこで自分を作品内に投影させて感情を移入していけばいいのか、人物の物語に対する役割が変わるので難しいかもしれませんね。時には、主人公のように物語を進め、そして時にはサポート役になり、そして時には誰かの物語には誰かの存在は非常に希薄になってしまう、さぁ、これが作り手の意図によるものなのか、はたまた・・・。

    では、少し視点を変えて、上記の項も踏まえましてどういうところが、これまでのジブリ作品を受け継いでいるのでしょうか、そこに触れてみたいと思います。主人公の問題を抜くと、配役はかなり似ていますね。仮に、男の子と最終的にわかりますが女の子が主人公であったとしましょう。そのときにおじさまは主人公を賢く時には厳しく優しく導いてくれる仮初の父親的な像としてガイド役です。そしておばさまは主人公を時には温かく、時には力強く包んでくれる仮初の母親的な像としてバックアップ+癒しの役目です。後者はそう機能していますが、前者は主人公足りえてしまうために、必ずしもガイドに徹した役ではありませんね。言ってしまえば、売れる映画として不可欠な(擬似)家族もしくは(家族構成の一員が欠如した、たとえば母の居ない等の)家族とその冒険という柱は構築されるのです。

    さて、では、これを踏まえまして、少しジェンダーロール、つまり男性・女性の役割を考えて見ます。大抵のジブリ作品は(主人公である)女性が力強く、もう一人の主人公とも言える男性の後押しを受けて物語をぐいぐい引っ張って、最終的には断固たる決意の元に物語のカタルシスとも言える決断と行動をし、最終解決へ至る。これが、『ゲド』では必ずしもそうではない、むしろ逆転している、言い換えれば、古典的な男女の役割となっています。つまり、男は力強く、女はか弱く。これは物理的なものではく、精神的なところまで。特におじさま、おばさまの関係はそうですね。おばさまはすごく従属的。男の子と女の子もある意味そうです。男の子は男性の象徴的な剣を持ち、これに依存します。そして女の子はその男の子の救済となるわけです。大抵のジブリ作品は逆です。女の子がすごく動的・主体的・行動力(攻撃性)が高い。そして男の子は最後の後押し、救済となるべくその媒体・サポート役に回り物語が収束するわけだったりしますが、この辺は『紅の豚』に似ているかもしれませんね。はてさて、『紅』はジブリ作品でも売れた方でしたでしょう~か。

    『ゲド戦記』考察_e0039500_21482331.jpg


    それでは、また少し視点を変えまして、ジブリ作品が持つファンタジー性について。『ゲド』では、魔法という概念が出てきます。そして神話的な生き物『竜』なる生物も登場します。この両者を鑑賞前に聞いたとき、非常に(ジブリ作品として安心できそうな)ファンタジー世界を思い浮かべませんか?そして、それに準じたファンタジーの世界は構築されていたでしょうか。言い方を変えると、『ゲド』の中で不思議な現象ありましたか?非現実ということではなく、(畏怖にも似た)未知なる不思議な世界という意味で。この辺は作品が持つ物語のテーマ的な部分と非常に連鎖しているのですがね。不思議な物・出来事の肝がなかったように思われます。主人公がはっきりしない分、このファンタジーな世界もぼやけてしまったように思います。魔法の世界も、竜の世界も、生と死という混沌とした精神世界も、どれも物語の主役になりきれていないのではないでしょうか。これまで得てして魔法や不思議な現象は物語のカタルシスとして発生していますが、『ゲド』ではどこにカタルシスを求めてよいかがぼやけてしまっていますよね。それもこれも主人公の不透明さと物語の分裂によって起こるわけですが。魔法は、竜は、物語の最終解決となったのでしょうか?男の子の最終解決は?女の子は?おじさまは?世界は?

    それでは、もう少しテーマ性に的を絞ってみましょうか。ここは多少俗に言うネタばれになるかもしれませんが、あしからず。オープニングから暗いメッセージにも似た暴力的な描写から始まります。結果は判然としませんが、「暗い行為」から始まるジブリ作品がこれまでありましたかね。これまで凶暴性が全くなかったわけではないですが、『もののけ』のようにね、しかし暴力には理由がありました、そしてそれを観客は受容できるような形になっていました。それまでほとんど当て擦りもなく、ヒントも与えられず、突如として「個人が抱える死との対面」というテーマが浮上します、それも非常に直接的に、言葉によって。つまりセリフによって説明されて始めて、ああそうなのか、と合点が行くような形。あたかも我々に説明しているかのように。時間や空間が断絶してしまっているように、テーマも階段を上がるごとく構築されて浮き上がるといった形ではなく、断片的にかつ説明的に扉を開けて見せられるといった形で突きつけられます。テーマ性やメッセージ性を観客に唐突に投げるという行為はほとんどされて来ませんでしたよね。言い換えれば、そのテーマやメッセージに正面きって受け取らなくても作品の物語を楽しめるそういう因果関係や発展があったのですが、『ゲド』では、ある一つのテーマを完全に受容し消化をしようとしないと物語が帰結しない。これまではそのテーマやメッセージにある程度の解決が用意はされていましたが、それはそのまま主人公の問題と最終解決というところに結びつく必要がなかったのが、今回は主人公たちの物語の帰結や解決というよりも、メッセージやテーマに非常に直接的で分かりやすい白黒のついた解決を与えて物語の終わりという形をとっています。この辺にも、意識してもしなくても、違和感となって残るように思います。物語が波錠している、と言っているわけではないですよ、これまでのジブリ作品と比べたときに浮き上がる違いです。

    そして、それを踏まえてもう一つ。「死」に対する恐怖やそこからくる葛藤や苦悩、こういうものってどこまで若者に伝わるでしょうか。そういう恐怖や葛藤、苦悩といったものは、自分の肉体が老いていく歳になって初めて体感できるものではないかと思います。物語の最終解決として提示されるのが死に対するものであって、これを消化できなければ、またできない観客は完全に置いていかれてしまう様に思います。それ以前に提示されている「世の中?万物?の秩序の乱れ」ともつながりが薄いために、死もしくは死という観念に対する答えの提示が軽くなってしまい充分な落としどころになりきれていない感も否めません。よーく考えてみると、これまでのジブリ作品では子供でもわかる物語構造と大人がわかってくれればいい付加的なメッセージ性との二重構造が売りであったように思います。これが、『ゲド』では後者のみに特化されてしまった感が否めませんね。果たしてどこまで子供が追って楽しめる物語となっていますかどうか、これは子供に実際に聞いてみないとわからないのかもしれませんが。

    さて、そろそろまとめにかかろうかと思います。ここまで書いてみて、あらためて諸説紛々の根幹となっているのは、主人公の不透明さに尽きるのではないかということですかね。ここが定まらないので、物語の軸もずれる、焦点もぶれる、テーマもつながりきらない、こうしたこれまでのジブリ作品ではなかった内容となっていることに気がつかされました。これを踏まえた上で、あらためて『ゲド戦記』をジブリ作品の一つとして考えたとき、多くの要素や表現が異なることに気がつかざるを得ません。これまである程度一貫されてきたものが、突如そのラインからそれてしまった、逸脱していると言っても過言ではないでしょうね。これを故意に行ったのか、はたまた作り手の違いによる産物か、ここを見極めてみたいように思います。少なくとも、駿監督の専売特許的なものがこの作品からは消えています。意図的であるならば、登場人物のキャラクターやその描写はその限りではないのがまた不思議。あきらかにジブリ作品が描くキャラクター像がそのままそこにあるわけです。アニメーションに関しては映画の外、つまり請け負ったアニメーションスタジオ等の兼ね合いもあるのでしょうが、その辺はまた。

    『ゲド戦記』考察_e0039500_21485239.jpg最後に最初の出発点に戻ってこの考察のまとめとしようと思います。
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」
    これですが、もう言わんとすることはお判りかもしれませんね。この作品を劇場で見ていて、これまで延々と↑に書いたようなことに思いを巡らせていたのですが、明らかにこれまでのジブリ作品から逸脱した内容と表現になっているこの作品、これまでのジブリ作品とは違ったもう一つの対極的な路線を打ち出したものなのか、それともただ脱線したものに過ぎないのか。前者であれば、非常に興味深く見守りたいわけですが、後者であれば初監督吾朗氏の行く末が案じられます。良くも悪くも、この作品はジブリというラベルが貼られてしまっているわけで、爆弾を抱えて走っている興業となっていますが、この疑問の答えとなるものが次の作品以降見えてくるものと思われます。そうした意味では、楽しみではありますけどね。


    Depper

    参照:
    http://kozoism.exblog.jp/3919793/
    # by corin_depper | 2006-08-20 21:51 | レビューと考察