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    カテゴリ:レビューと考察( 47 )
    ディープフォーカスとパンフォーカスと映画『市民ケーン』
    e0039500_1121737.jpg映画学的相互支援サイトの「映画学メモ」のシネレッスン第8回目で映画『市民ケーン』とディープフォーカスについてのエントリーがあったので、それにトラックバックです。

    『市民ケーン』といえば1941年に製作された映画です。戦前ですよね、戦前。そして、British Film Institute(BFI)の批評家が選ぶトップ10映画の第一位、そして映画監督が選ぶトップ10映画の第一位に君臨する映画、それが『市民ケーン』ですね。つまり、見る側からも作る側からも一押しの映画ということになります。それだけこの映画には深いディープインパクトがあるということなのですが、その一つが「ディープフォーカス」という概念・技法が間違いなくあります。余談ですが、↑にあるトップ10映画ですが、批評家が「小津映画」を選び、監督が「黒澤映画」を選んでいる違いは興味深いです。変な言い方をすると、「小津映画」、「黒澤映画」両者にある要素が一つの映画に詰まっているのが『市民ケーン』ということでしょうかね。
    非常にラディカル過ぎな言い方ですが(苦笑)

    さて、本題に戻りますと、『市民ケーン』とはいろいろと個人的にも因縁がありまして、それもあって気合でTB記事を書こうという気になりました。因縁の一つが「ディープフォーカス」といういわゆる映画用語なんです。以前翻訳した映画書の1章まるまる『市民ケーン』についての考察なんですが、そこを中心に原文(英語)の中にいたるところに出てくる単語が「ディープフォーカス(Deep Focus)」なのです。もちろん、日本語で「ディープフォーカス」としましたら、編集の方から「この場合これまでの慣例通りパンフォーカスとするべきではないでしょうか」という問い合わせが来ました。そこからどちらの単語を訳とするか少しもめた因縁があるのです。
    e0039500_11522375.jpg
    結論として、どうしても譲れなかったのでディープフォーカスで通すことを渋々編集者の方に了承してもらいました(苦笑)ただ、譲れなかったのには理由があるのです。日本では慣例としてパンフォーカスと呼ぶことになっていたようですが、なぜそうなったのでしょうか。写真の撮影技法を指す言葉として使われていたようですが(正確なところをご存知の方はぜひ教えてください)、その概念とほぼ同意義ということで誰かが最初に映画のディープフォーカスという用語をパンフォーカスとしたのでしょうか。私個人がパンフォーカスとしたときに混乱したのです。「パン(Pan)もしくはパンショット」という撮影技法用語が少なくとも英語では存在します。つまり、パンという概念は広角に首を左右(まれに上下も含む)に振るというところから来ている単語です。ディープフォーカスは広角に捉えるかどうかは別議論としても、間違いなく左右の幅や動きに焦点を当てた言葉ではありません。ディープは深いと訳されるように、前後の奥行きのことを言っているのです。前後の奥行きに広く焦点をあわせる技法もしくはそれによって撮影された映像を指して使われます。つまり、直訳をしても意味が異なる言葉に対して慣例だからと言ってそれにならうことはどうしてもできなかったのです。

    e0039500_1210568.gifさて、話は移りますが、ディープフォーカスという技法はただ単に視覚的なインパクトを生むだけではありません。ディープフォーカスされていない同じフレーミングをした映像とは全くその映像の持つ「意味」が変わってきてしまいます。例えば、ディープフォーカスされていない映像では私たちの視線は自然と焦点の合っている場所へ視線がいざなわれます。しかし手前から奥まで焦点が合った映像は見る側からすれば視点は一箇所ではなく、映像全体に渡ります。つまり焦点ではなく、そこにフレームされる枠どられた映像の中での物・人物の配置などが大きな意味を伝達して来ます。要するに、作る側は技術によって映像に新たな意味を吹き込みたいという意思、そして見る側はそこから生まれる新たな意味を模索・分析するという行為がはっきりと始まってくるきっかけにもなったと言っても過言ではないでしょうか。そういう意味で『市民ケーン』は作る側にも見る側にも賞賛される映画なのだと思います。

    e0039500_1222344.jpg『市民ケーン』で言えば、撮影技術だけでなくいろんな意味で分岐点となる映画になっています。Film Noir(フィルムノアール・暗黒映画)の発露を見つけることもできますし、主人公の死から始まるという後々のヒッチコックにも通じるようなサスペンスの手法の発露も見え隠れします。戦時中に発達するニュースリール(報道)映画の要素ももちろん発見できます。誇大な言い方かもしれませんが、1941年以降の映画の玄関と言える存在になってる映画だと思います。つまり、映画学を学ぶ上ではずすことのできない映画ということになるのです。少し堅苦しい話になってしまいましたが、作る側も見る側にも多大な躍動感を伝えてくれる映画ですね。
    Depper

    参照:
    『Citizen Kane』(IMDB)
    『市民ケーン』(AllCinema Online)
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    by corin_depper | 2005-12-20 12:15 | レビューと考察
    『Harry Potter』と『Star Wars』
    前投稿で予告したとおり、今回のテーマは映画『Harry Potter』『Star Wars』のです。この2シリーズの類似性については、Corinの習っていた教授が“『Harry Potter』 is another version of "that" Star Wars, isn’t it!!??”とよく生徒に議論を促していたのですが、当時の私はどうもしっくり来ずに、ずっと考えていたんです。そして前回、映画版『Harry Potter and The Goblet of Fire』における「善と悪」という二元論的なテーマの支配を確認したことで、ついにこのQuestionの一つの答えが見つかった気がします。それでは、Here we go!! (あ、一部日本語訳未発売分の原作のネタバレありますので、ご注意ください。)

    題して、“役割分析から見る『Harry Potter』『Star Wars』の類似性”。この分析は、Joseph Campbellによる“Hero’s Journey”という論文を参考にしています。(憶測で申し訳ありませんが、個人的にはJ.K. Rowlingも“Hero’s Journey”を読んだことがあるのではないかと…。“Hero’s Journey”については面白い論文なので、来週あたり改めて説明の投稿をしたいと思います。是非ご覧ください!!)

    まず、第一にすべきことは、『Star Wars』を、『episode4-6』と、『episode1-3』の二つに区切ることです。以下は『Harry Potter』『Star Wars episode 4-6』の役割分析です。

              『Harry Potter』         『Star Wars episode 4-6』

    ヒーロー   Harry Potter(魔法の杖)     Luke Skywalker(ライトセーバー)
                  ↓   “Join you NEVER!!”   ↓
    悪敵       Lord Voldemort          Darth VaderとSith Lord
    このように、両シリーズで両ヒーローが敵のダークサイドを拒絶していることがわかります。以下はヒーローの周囲の人物です。

    女神       Hermione Granger           Princes Leia
         (Harryと同じくMuggleの血を引く)  (双子としてLukeと同じ血を引く)
                  ↑                    ↑
                 LOVE?                LOVE
                  ↓                    ↓
    Shapeshifter   Ron Weasley              Han Solo
    (Harryへの嫉妬心有。シリーズ4では喧嘩する)(Lukeとはライバル関係でもある)
    ヒーローに最も近い位置にいる友人2人の特徴も、2人の関係もほぼ同じ構図です。続けます。

    助言者        Rubius Hagrid           Obi-Wan Kenobi
             (Harryを魔法界へ導く)      (LukeをJediの道へ導く)

    神託・賢人    Albus Dumbledore              Yoda
           (Harry6年生の時点で死亡) (Lukeが修行に戻ってきたところで死亡)
    以上のようにして、賢人はヒーローが目的を果たす(敵を倒す)直前でお亡くなりになっております。以上のように、『Harry Potter』『Star Wars episode 4-6』の主な登場人物のキャラクター構造にはかなりの類似性がみられます。

    さてさて、では『Star Wars episode 1-3』はどうでしょう。まず主役…

              『Harry Potter』         『Star Wars episode 4-6』

    ヒーロー   Harry Potter(魔法の杖)     Anakin Skywalker(ライトセーバー)
                  ↓                   ↓
             “Join you NEVER!!”        “Yes My Master!!”
                  ↓                   ↓
    悪敵        Lord Voldemort            Sith Lord
    はい、終了~、ということで。『Star Wars episode 1-3』だけを見ると、ヒーローと悪の関係が既に正反対なのです。よって、役割分析では、『Harry Potter』『Star Wars episode 1-3』は極めて異質なものといえます。何故Anakinが“Yes My Master!!” と言ってしまったかというと、それは最愛の女神Padméを救いたい気持ちからです。この点、HarryとHermioneが現時点で恋愛関係にないことから、女神の役割自体も両作品で異質なものとなります。よって、『Star Wars episode 1-3』はヒーローの活躍よりも、ロマンスに重点を置いた作品だったことがわかります。

    『Harry Potter』 is another version of "that" Star Wars, isn’t it!!??”の答えは、“Well, 『Harry Potter』 is another version of "that" Star Wars EPISODE 4-6, isn’t it??”ということでした。気が弱い私としては、“Join you NEVER!!”といえるような人間になりたいです、はい…。
    Corin

    参照:Joseph Campbell Foundation
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    by Corin_Depper | 2005-12-09 07:20 | レビューと考察
    『Harry Potter and the Goblet of Fire』と消えた英国階級社会
    e0039500_78123.jpgHarry Potterシリーズの第4作目の登場です。いろいろ書きたいことはあるんですが、今回の切り口はこれ、イギリスの階級社会です。前3作品や『~the Goblet of Fire』の原作との比較も多少出てきてしまうんで、映画『Harry Potter and the Goblet of Fire』だけの純粋な分析ではなくなっちゃうんですけど、ご了承下さい。


    まず、前置き。Harry Potterシリーズ前3作品(映画)において、魔法界における階級社会は以下のように描かれてきました。

    Upper Class → Malfoys: 召使い(Dobby)を持つ。
    Middle Class → Weasleys: Ronの杖と制服は兄のお下がり。
    Working Class → Dobby: house-elfです。
    Others → Harry, Hermione: マグルの血を引いているため、階級が不透明。

    そして、『Harry Potter and the Goblet of Fire』。原作にはあるのに、映画ではごっそり抜け落ちているもの。それはDobbyと同じhouse-elfのWinkyです。原作においてWinkyは、物語を動かすキーともいえる重要な存在です。というか、house-elf全体(Dobby もHermioneのSPEW活動も含む)が抜け落ちています。映画版『Harry Potter and the Goblet of Fire』は、前3作において魔法界を支配していた階級社会の底辺ともいえるWorking Classを完全にdismissしているのです。

    なぜ、Working Classの登場人物に関するナラティブが削除されたか。それは、魔法界における英国階級社会(を映像化すること)が、意味を無さなくなったからと考えられます。説明すると…

    ①大量のOthersが社会に介入した。
    Quidditch World CupやTriwizard Tournamentによって、イギリスの階級概念を共有しない人物がナラティブに入り込んだ。

    ②階級以外の概念が社会構造を支配した。
    Voldemortの復活によって、「善と悪」の概念が社会のグループ分けの基準となった。(よってUpper ClassのはずのLucius Malfoyは、Voldemortの前に僕として跪かなければならない。)

    HarryやHermioneは、「階級」ベースの魔法界では血のせいでOthersに成らざるを得なかった。しかし、「善悪」ベースの魔法界では、彼らは「善」社会のinsiderに成り得る。そしてHarry。彼は、ただのinsiderではなく、「悪」社会の頂点Voldemortと戦うヒーロー、「善」の頂点ともなる。

    ③そして、映画はその新しい社会構造に特化して作られた。
    (たとえ4作目以降の原作が階級制度を描き出していても)映画のHarry PotterシリーズはBritish cultureを基調とした映画から、押し寄せる「dark side」との闘いを描いた異世界が舞台の映画にシフトしつつあると考えられます。ん??「dark side」??というわけで、次回は『Harry Potter』と『Star Wars』をテーマに簡単に書く予定です。ありがちでごめんなさい…。

    今回の『Harry Potter and the Goblet of Fire』、原作からいろいろな話が大量に省略されています。原作を読んでいれば、映画版が不満な人も多かったはず。でも、せっかくだから省略部分を糸口にちょっと映画自体について考えてみると面白いかも。映画を少しばかり外から眺めてみるそのカタチ、です。
    e0039500_762546.jpg

    Corin

    公式:
    http://harrypotter.warnerbros.co.jp/site/index.html(日本語)
    http://harrypotter.warnerbros.com/(英語)
    参照:
    http://www.imdb.com/title/tt0330373/(IMDb)
    Excite エキサイト : 芸能ニュース
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    by Corin_Depper | 2005-12-05 07:15 | レビューと考察
    『Dark Water』と『The Ring』と『The Ring Two』
    修論で消息を絶って以来、ほぼ3ヵ月半ぶりの投稿となりますCorinです。えっ、誰??と思う方は、Profilesをご覧ください…。すみません…。

    さてさて、つい先日『Dark Water』を見てきました。『Harry Potter and the Goblet of Fire』も同じ日に見たのですが、それはまた次の機会に。『Dark Water』、一見『The Ring』にそっくりなんですよね。原作が鈴木光司だし、両方ともいわゆるJ-Horrorのリメイクだからという理由は当然ありますが、それはひとまず置いておいて…。
    e0039500_55469.jpg

    『Dark Water』『The Ring』の共通点は、
    ①シングルマザー(バツイチ)が主役であり、
    ②彼女たち(『Dark Water』のDahliaと『The Ring』のRachel)は、それぞれ理由は違えども、自分は「よい母親ではないのではないか」「母親失格かもしれない」と悩みを抱えている。
    ③そして、愛する子供(『Dark Water』のCeciと『The Ring』のAidan)をMonster(『Dark Water』のNatashaと『The Ring』のSamara)に奪われる。
    ④結果、彼女たちは子供を奪い返すために、闘う。(この闘いは、彼女たちの「母親としての自信」を取り戻すための試練・過程として描かれる。)
    ⑤「死体の発見」(『Dark Water』では屋上のタンク、『The Ring』では井戸の底=両方「水」に関係)によって安堵し、彼女たちは母親としての自信を取り戻す。
    ⑥しかし、Monsterはまだ生きており、子供の命が再び危機にさらされる。
    ⑦母親としてのアイデンティティを得た主人公は、犠牲(『Dark Water』ではDahlia自身、『The Ring』ではRachelの愛する人)によって、子供を助ける。

    ここで思い出したいのが、『The Ring Two』です。『The Ring Two』の最後では、Rachelは犠牲によってではなく、闘い相手を倒す(封じ込める)ことによってAidanを助けます。

    わかりやすく説明すると、以下のようになります。

    e0039500_641876.jpg・『Dark Water』→DahliaはNatashaに、(“Forever”に)彼女の母親になると約束をすることで自分を犠牲にし、Ceciを助ける。
    ・『The Ring Two』→RachelはSamaraに、「私はあなたの母親じゃないのよ!!」(井戸の石蓋を閉めながら“I’m not your f**king mother!!”とか何とか決め台詞を吐いたはず笑)と拒否し、Samaraを封印することでAidanを助ける。

    なぜ、この差が出たのでしょう。NatashaもSamaraも、もともとは両親から愛されずに孤独だった少女です。しかし、「死」と共に彼女たちはMonster化するわけですが、ここに『Dark Water』『The Ring Two』の大きな違いがあります。Natashaはゴーストですが、視覚的には少女のままです。一方、Samaraはゴーストであり、視覚的にもエクソシストさながらのMonsterそのものです。特に『The Ring Two』では、ただの「白い服を着た黒い長髪の女性」ではないことは明らかです。結果、この2つの映画は全く異質のものとなります。『The Ring Two』はSamaraを視覚的にMonster化することで、いわゆるクラシックホラー(Wolfman, Dracula, Frankenstein, Mummyなどの怪物映画)にも分類しうるわけです。

    そうなるともう一点、面白いことが…。1930,40年代のクラシックホラーは、castration(去勢)された男性が、victim(犠牲)としての女性をMonsterから助けることで、masculinity(男らしさ)を取り戻す物語が一般的。でも『The Ring Two』は、castrationされた母親が、victimとしてのわが子をMonsterから助けることで、maternity(母性)を取り戻しています。つまり、異色のhorror映画だと思われるのです、『The Ring Two』は。

    てなわけで、久々にまじめに書いてみました。『Dark Water』が久々に思考を掻き立てられる作品だったというのもあります。まだご覧になってない方、公開終了前にぜひぜひ。

    Corin

    公式:
    『ダーク・ウォーター』(日本語)
    『Dark Water』(英語)
    参照:
    『Dark Water』( IMDb)
    『The Ring』(IMDb)
    『The Ring Two』(IMDb)
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    by Corin_Depper | 2005-12-02 06:07 | レビューと考察
    『Inside I'm Dancing (2004)』
    e0039500_7352166.jpg...and life still goes on.

    That's realism, isn't it??

    ということで、この映画、どこのデータベースにも載っていないので日本には行ってないようで残念。(『ホテルルワンダ』は公開するみたいだが)

    勝ちなのか、負けなのか、面白いのか、面白くないのか、喜劇なのか、悲劇なのか、そんな極端な二極化的な価値判断が映画の中のドラマにも反映されているようでならない今日この頃。
    e0039500_88578.jpg


    あめ~りか~ファックYeah!

    でもなく、

    落ち込むこともあるけれど、私は元気です

    でもなく、

    それでも現実は次から次へと押し寄せてくる

    そんな作品でした。

    「Fin」「終」「End」が最後にあるのが物語り。
    では、それが無いのは?
    Depper

    公式:
    http://www.insideimdancing.co.uk/dancing.htm
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    by corin_depper | 2005-11-23 08:09 | レビューと考察
    『太陽(The Sun/Solntse)』レビュー
    e0039500_1484066.jpg未だ日本公開のうわさすら聞かないロシアのソクーロフ監督の映画『太陽(The Sun)』が地元の映画館に2日間だけの日程で上映されるということで昨日ハロウィーンで盛りあがる人々を背に見てきました。正直、まだ頭の中で纏まった構造が見えていないので、レビューを書くのをためらいましたが、何より日本が描かれ日本に行かない映画なのであればそれでも書く意味があるのではないかという思いに駆られ、結局書くことにします。(ネタバレ御免で書きます。)

    以前見る前にも記事を書いていますので、そちらもチェックしてから読んでもらえるとよりわかりやすいかと思います。
    映画『太陽(The Sun)』について少し考える 2005年 09月 05日
    映画『太陽』に関する「NYタイムズ紙」の見解(訳) 2005年 10月 08日
    e0039500_222429.jpg
    既にあちこちでネット上、雑誌、新聞で目にするレビューなどでほぼ統一的な見解というか、概要はわかるようになっていますが、あえてまとめると、非常に特異な映画であるということだけは確かです。監督自身が言うように、物語映画でもなく、ドキュメンタリーでもなく、昭和天皇のある日々を彼の存在というものが極めて奇異に感じられるその瞬間瞬間をスナップショットのように収めてある、それがこの映画を見に行くと「そこにある・描かれているもの」でした。つまり、英語で書かれるレビューなどは「まさにアートハウス」などと言う表現がされていますが、こういう映画の見るべきはやはりその形式、手法、構造ではないかなと思います。

    この映画で、歴史を語るのも、政治的イデオロギーを語ることも非常に難しいと思います。更に、そこに描かれているイッセイ尾形演じる昭和天皇の姿・行動・それを囲む環境がどれだけリアリティを有しているか、反映しているか、これを論じることも非常に無意味な内容になっています。ただ、見に行く側はこれらに関して非常に意識しながらスクリーンを眺めるでしょうから、もしかすると、肩透かしをくったような感覚に襲われる人は多いのではないでしょうか。これらの先入観的なフィルターをまず取ってスクリーンに客観的な眼を向けるとこの映画自体の存在価値・位置が見えてくるような気がします。

    それでは、少し、細かい点について。

    非常にTheatrical、舞台的な点について。
    暗い照明やローキー照明、抑えられた色彩、まるで能を見ているような慎重でゆったりとした動き・演技、そして多用される長回しシーンの連続、これら一見して伝わってくる視覚情報がこの映画を非常に舞台のそれと近いことを教えてくれます。逆にそれによって、そこに映し出される画が非常にリアリティという感覚を麻痺させて、シュールリアルなものにさえ見せてくれています。そこで焦点を当てられているのは、非常にイビツな時代・状況に非常にイビツな存在としてそこに居る自分に対して自問自答もしくは苦悩しているかのように見える昭和天皇の姿です。

    「覗き」の視点について。
    一番最もな表現としては、我々は観察する役目を負わされるというのが妥当でしょうか。クローズアップした表情の一部始終から、引いた画でたたずむ天皇の姿を延々と観察するのです。こうした感覚は従者などが実際に行う常に「監視するために覗く」という行為を見せることによって自然と我々の視線もそちらへ誘われるようになっています。非常に実際の姿や生活をほとんどみることができない我々の感覚は既に皇室の中を覗く心境です。表現に語弊があるかもしれませんが、ある種National Geographic番組を見ている心境にすらなりました。と、同時に常にだれかの視線に晒されなければいけないモルモット的存在と受け取ることもでき、天皇が平家蟹を解説する様はまるで箱の中の箱という図式を浮き彫りにしました。

    特異な映像について。
    ↑で述べた映像的特徴以外に、目を見張ったシーンがありました。空襲のシーンで、ナマズが火の海と化した大地の上を飛びながらこれまた魚の形をした爆弾を投下し、硝煙で完全に光が遮断された煙と炎の(CGI)映像は、まるで映像的リアリティは欠如させながらもグロテスクで、『ハウル-』のそれを彷彿とさせるかのような映像でした。そういった演出もまた演劇のそれに近いです。後は、執拗に天皇の姿をこれでもかと枠にはめて撮るので、これはもう象徴性を超えていかに抑圧された状況・心理にあるのかを伝えるメッセージ映像の連続でした。ドアの枠から窓枠、枠・枠・枠です。そしてスクリーンの中心からはよくはずされて墨に小さく追いやられるその映像も非常に顕著な映像でした。

    ナラティブの欠如と音について。
    ほとんどロジカルに因果関係を提示されて行われる物語の進行というものはありません。確かに歴史的な出来事がありますが、時間の経過や軸、そして空間は非常に曖昧です。これもまた演劇の幕間、幕間、また幕間みたいな感覚にさせられます。そして物語の連続性の欠如をまるで埋めるかのようにある「音」が執拗に録音されています。それは時計の針が時間を刻む音。もう一つはラジオのチューナーが電波を拾う音です。抑揚のないシーンの連続の中で、同じリズム、同じ周波数の音を延々と聞かされる、まるで60年代の実験映画を見ているんではないだろうかという錯覚にすら陥りました。このストレスはかなりなものでしょうし、うつらうつら来ている人たちは1人や2人ではありませんでした(苦笑)

    反戦?反米?
    扱う時代設定柄、戦争という二文字は背景として非常に強いのですが、戦争というもの自体もこの映画ではより天皇の特異性を浮き彫りにするための装置でしかないように思えました。つまり、反戦的だとかいう姿勢はあまり見て取れないというか、そこに映し出されないのです。むしろ、目に付いたのは、占領軍であるアメリカ兵たちが非常に卑しく描写される(マッカーサーは別)ということと、この映画で唯一政治的歴史的な瞬間をかもし出す、天皇が広島・長崎の原爆投下を非難した時に、アレルギー的に苦虫を噛み潰したようなマッカーサーがパールハーバーはどうなるんだと切り返すシーンなどをみても、(やはり自分の日本人としてのアイデンティティがそう見せるのかもしれませんが・・・)ソクーロフ監督は反米的な意思を織り込みたかったのだろうかと考えさせられました。

    まとめとして。
    最初に言ったように、まだまだぼやけているところが多くて、これ以上はまとまりそうにありません。全体像を捕まえるにはこれまた先日の『Takeshis'』じゃないですが、もう何度か見る必要がありそうです。最後に私的感想として、人が人であるという宣言をしなければならないというその様態はやはりナンセンスに感じます。そして、勝手な目測で最後には実際の人間宣言の録音されたものが流されるかと思っていましたが、まったく流れず、エンドロール。右下に小さく繰り返し現れる一羽のハトの画は、やはり監督は多からずとも反戦的観念を織り込みたかったのかなと思わされました。私の前の列に日本人の女の子3名が座っていましたが、途中からスヤスヤでした・・・(苦笑)気持ちはすごくわかりますが、もったいないなぁとも思いました。。。
    Depper

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    by Corin_Depper | 2005-11-02 03:15 | レビューと考察
    『Takeshis'』 in ロンドン映画祭(レビュー)
    e0039500_231647.gif
    ロンドン映画祭初参加で『Takeshis'』観て来ました。自分でチケットを取り損ねたので半ば諦めていましたが、いつもお世話になっているKitanotakeshi.comのHenrik Sylowさんの働きかけで、イギリスでの配給権を買ったArtificial Eyeのお偉いさんに招待者チケットを押さえてもらって、ジャーナリストさんたちしか座らないような席でノートとペン片手に気合いで観て来ました。

    あまり一般公開前の映画のレビューを書いたりすることもないというのと、ゆえにあまりネタばれ等気にして書いたことがないので、どこまで書いてよいやらわかりませんが。行きます。
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    『Dolls[ドールズ]』や『座頭市』に対するアンチテーゼになっている件について。
    いわゆる『Dolls』における、芸術的な高みから、『座頭市』におけるコマーシャル・エンタテイメントのベクトルから、どちらに対してもつばを吐きかけるような作品になっているのが『Takeshis'』。しかし、それをすることで駄作と呼ばれずに作家性の強い作品と位置づけられることをすごく意識している映画。巷で言われているほどにめちゃくちゃな作りにはなってなくて、最後まで計算して体裁をつけているという点で、『みんな~やってるか!』とは一線を画することは明白。

    北野監督自身が言うような集大成的な作品になっている件について。
    この映画を見る前にこれまでの北野映画全作品を見ていることを大前提に作られている。なぜならほぼどのシーンにも自作品に対するオマージュ的な表現が見受けられるから。↑の画像なんかはまさしく『Hana-Bi』のワンシーンを、↓の画像は『みんな~やってるか?』のワンシーンを髣髴とさせる。そこに映りこむ『座頭市』の芸者キャラクター。北野武が役者(ビートたけし)として、監督として携わった映画作品に対するオマージュ的なシーンの数珠繋ぎのような構造になっている。多くの映画描写の要素が彼の見てきた夢のシーンから来ているということは有名な話だが、そういう意味でも彼の脳みその中身をそのまま映写しているかのような映像の連続。
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    もう一つ集大成的なところは、登場人物もそう。これまで北野作品に登場した主要なキャストがこれでもかと登場するから、見ているほうはそれらのキャストがどの映画から来てたっけ、なんて考えさせられるので忙しくてしょうがない。とても見ながらメモをとれる量とスピードじゃなかったので、半ば諦め。となりのジャーナリストも途中まで拾ってたみたいだけど諦めてました。一緒にペンが止まる(苦笑) そして驚きはほぼ全ての主要キャラクターが多重な役を持っているということ。ドッペルどころかトリプルゲンガーなんて当たり前の世界。

    プロモーションで前面に押し出されている【赤】と【青】の件について。
    この二項はそれほど前面に押し出されてきていない。どちらかというと、これまで表現してきた範囲内で収まっているというのが率直な印象。ビートたけしと北野武という二項と並列させて相当強烈にやっているかのようなプロモーションの仕方だけれど、どちらも対立ではなく境目が曖昧な融合的な表現になっていると思う。但し書きとして、夢のようないわゆるロジックの通用しないシーンの中で色使いには傾向というか、象徴性を持たせているように分析できそうな印象はありだけれど、マシンガンのように入り組んだ(一見因果関係のはっきりしない)シーンの連続をみせられるので、この辺は一度見ただけではなんとも言えない部分。

    赤裸々な性描写の件について。
    この映画での「性描写」は、いままでのそれらとは明らかに一線を画する。特にリハビリと称して製作してきた『キッズリターン』以降視覚的な性描写を極力敬遠してきたところに、突如見せられた感じがする。明らかにレーティングには響くだろう=興行にも響くのだろうけど、そこももう、真っ向からJerk offというところなのだろう。日本ではいくつ指定になるのかな。

    一つだけ引っかかる映像の件について。
    映像的にすごくハリウッド的なゴージャスさを出した映像から、これ8ミリとかで取ったんじゃないかというホームメード的映像まで使い分けがされていたように思う。アクション時の音声・視覚的演出は前作『座頭市』で達観するところがあったに違いない。そして、一つだけ気になったのはOut of focus、つまりピンボケになるところが幾度となくあったこと。一瞬だが、ピントがずれる。技術的なことなのか(考えにくいが)、意図したものなのか。That is a question.

    一応まとめ。
    e0039500_3254483.jpg意図したとおりなのだろうけど、夢のような時間と空間を持ったシュールリアリズム的なシーンばかりなので、半ば強制的に1900年代初頭のフランスの印象派映画の類を想起させられずにはいられないし、この映画でやれるものなら心理分析してみろと言われているような挑戦的な主張をしているようにも感じた。実際やる人は出てくるだろうけど。好き嫌いがわかれる映画と書かれているのをいたるところで目にするけれど、好き嫌いではなくて、北野監督映画、主演映画などをどれだけ見てイメージとして記憶しているかで、映画を楽しめにいけるかどうかが分かれるのだと思う。ある種、北野ファンだけついてくればいいや、みたいな受け手に対して排他的な感じもする作品。いずれにせよ、一度の鑑賞で色々語れる映画ではないなぁ~。そういう意味では劇場へのリピーターを計算してたりして・・・なんて欲張りな計算も見え隠れしているのかもしれない。
    Depper

    Special Thanks:
    KitanoTakeshi.Com
    Artificial Eye

    公式:
    【Takeshis'】(Office Kitano)

    参照:
    トロント国際映画祭作品紹介【Takeshis'】
    International Herald Tribune(英文) FRIDAY, SEPTEMBER 2, 2005

    追記:
    ストレスの多いシーンの件について。
    冒頭の非常に映画的な入り方から突然の裏切り、随所に見られる「惜しげもなく繰り広げられる北野の脳内映像」は少なからずストレスを与えられる場合が多いと思われる。厳密には全く異なるが、一見同じようなシーンの連続であったり、執拗に行われる「繰り返し」(元々北野映画には多いけれど)、これらは監督の今回の作品は決して観客に媚びないという意思のように思える。堪えれるものだけ、それを楽しむものだけでいい、と。それは得てして「作家性の強さ」の誇示でもあるのだけれど、ナラティブ構造的に少し引いてみた場合にそれは決して破錠しきっているわけではない(1から検証したら全て繋がるように見える)ので、それを分析・評価をする専門家はきっと出てくる。受け手である観客にストレスを強いる内容と明らかに分析を促される形式をもつこの映画がどう評価をされ、どういう興行成績を残すのか、それが非常に楽しみだ。

    補足:
    lunatiqueさんからコメントで指摘していただいた部分を少し加筆してみたいと思います。
    「ナラティブ構造的に少し引いてみた場合にそれは決して破錠しきっているわけではない(1から検証したら全て繋がるように見える)」というあたりで、それならなぜそうした『TAKESHIS'』はそうしたナラティブ構造をとるのか
    シークエンスの一つ一つが余りに(編集によって)細かくパズルのピースのようでそれ一つでは何が何だかわからないんですよね、骨太な物語やドラマがあるわけでもないので、バラバラのパズルのピース(=脳内映像の一部分ずつ)を一つ一つ見せられてるという。つまり、北野武監督が言うように「体感映画」である所以だと思いますが、この1つのピース個々に反応ができないと、非常に観客としては突き放されます。逆に、ピース個々に反応できると、そのピースが何処から来ているのか、何処の一部分なのか、それは全体像を見たときにどこに収まるのか、などなど見せられるたびに引き込まれるのではないでしょうか。これは、ビートたけしだけをよく知っていてもダメですし、北野映画でしか北野武を知らないということでも完全には映画に引き込ませてもらえません。ただ、lunatiqueさんのように一観客としては突き放されてしまった場合でも、一映画として分析にかけるには面白い映画(構造)になっているのではないでしょうか。逆に、余りに陶酔してしまっているたけしファンの方達には客観的な視点で分析をして全体像(構造)を捉えるという行為は必ずしも重要でない、体感として消費してもらってもよい、そんな映画でもあるように思います。

    まだ、ピースを並べて全体像を模索していないのでなんとも言えませんが、いわゆる理路整然としたある種写真のような全体像ではなく、
    映画の「抽象画」目指した 「TAKESHIS’」 [Asahi.com]
    のインタビュー記事で彼自身も言っているように、キュービズム的様相の一枚になるのではないでしょうか。(パリでメディアに受けたインタビューでは、一つだけどうやってもロジックにならない“飛躍”があるという言い方をしていたので、もしかすると、いくつかのピースはきっちりとはまらないようにもなっているのかもしれませんし、そこはまた彼の挑戦的・野心的なメッセージなのではないかとも思われます。)

    まだ一度見ただけの現時点ではうまく言えませんが・・・、最終的に国内ではビートたけしの知名度と生粋のファンで支えられてきた北野映画と海外では全く逆に映画を批評・分析されて客観的評価を受けて愛されファンを拡大してきた北野映画、そんな彼の存在と北野映画との関係も意識され集約された映画(構造)になっている気がします。ロンドン映画祭の上映を見たのですが、実際に日本人が反応を見せるところ、そうでないところ、結構はっきり分かれたように思いますし、私個人も見ていて、ここは日本の観客に、ここは海外の観客に、そんな意思が働いている箇所がいくつかありました。(レジでのシーンなどは明らかに日本人客以外の視線を意識しているなぁ~と感じたのを覚えています。)これで少しはご指摘の点に応えられているといいのですが・・・(汗)どうでしょう??
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    by Corin_Depper | 2005-10-29 03:57 | レビューと考察
    『シンデレラマン』についてのレビューと考察
    e0039500_21145217.jpg勢いで劇場へ見に行ってから中々すぐにレビューを書く時間的ゆとりがなくなってしまって、時間が空いてしまいましたが、まだまだネット上にも個人的なレビューが活発に出回ってきているでしょうから、まだ時期を逸していないといいのですが・・・。総評として、いわゆるオスカー狙いのハリウッド映画が陥りやすい「欲張りすぎた映画」になってしまったのかな、というところでしょうか。つまり、より多くの観客を引き付けようとする余りに個々では魅力的な要素なのですが、集合としてかみ合いきれずに飽和状態になってしまっている感がありますね。『パールハーバー』などよりは全く軽症ですが。裏を返すと、「優等生的な映画」でもあるように思います。特に目新しい冒険をする(=リスクを冒す)わけでもなく、かといって明らかに批判の的になるようなところもなく。予定調和と言ってしまうとそれまでですが、全体的にはうまくまとまっていると言うのが適当な印象でした。

    ひとまず、前回のエントリー記事で挙げた疑問点から解決しようかと思います。

    ① について、『シービスケット』との比較はアメリカの映画批評誌「Variety」の冒頭部分で扱われていました。もしかすると、それをそのまま・・・。ともあれ、Variety誌の記事では、なぜ比較せざるを得ないかが明記されていました。つまり、映画の物語上で描かれる主人公ブラドックの人生の浮き沈みとその軌跡が、『シービスケット』と酷似するとのこと。物語の抑揚と構成ですね。

    ② について、レネー・ゼルウィガーの役どころと彼女の持ち合わせる個性がやや不一致であることは否めませんでしたね。むしろ貧しさやそれによる惨めさを体現できずにいるように見えました。メークや衣装が全く小奇麗なままだったので。あとはあのふっくらした健康そうな顔立ちはどうしても相反してしまっているように思います。役どころは女性の観客を一心に捉えなければならない役です。逆に女性客層を多く取り込もうとしすぎたせいで、ミスキャストに始まり、プロットの焦点もぼけます。例えば、ボクシングのプロットに集中したい人などは女性代表かつ妻であるメイ役ゼルウィガーを描くシーンはジャマに思えてしまうでしょう。演技云々は個人的にはほとんど違和感を覚えませんでしたが・・・。

    ③ ネオリアリズムについて、例え指している物がイタリアのネオリアリズム映画であったとしても、とりわけ当てこする意義はないように思います。これには、正にその通りなコメントを頂いたので引用します。

    「貧しさの中の屈託のないユーモア」というのはデ・シーカの作品あたりを指しているのかな?と思ったのですが、それでもそれらの作品においては戦後の絶望的な状況の中で、そして救いのないエンディングの中でそれらのユーモアが力のある表現になってくるわけで、ボクサーが昔の栄光を取り戻す、というある種予定調和的な作品に、また「貧しさをみじめに強調するばかり」の演技を良しとせずに求めるのはちょっと違うのではないかな、と思ったのでした。またネオレアリスモは「貧しさ」や「屈託のないユーモア」といった「中身」の問題だけでなく、「スタジオではない現地での撮影」や「素人を役者として使う」いった「様式」のムーブメントでもあったわけですから、そういう意味でも引用文の中のネオリアリスモの扱いには疑問を持ったのでした。


    さて、次に少々全体の構造について考えたいと思います。
    冒頭で「欲張りすぎた映画」と銘打ちましたが、理由の一つはすでにゼルウィガーとその役柄についてのところで述べました。この映画の基本的なナラティブの構造は主人公をジム・ブラドックとした時には3本柱です。この3本が実際にはうまくバランスを図られて構築されていたように思いますが、実際にどこに集中してよいかわからず混乱を招くという原因にはなったのだと思われます。

    ① 父親としての(アイデンティティ確立の)物語
    ② 夫としての(アイデンティティ確立の)物語
    ③ ボクサーとしての(アイデンティティ確立の)物語
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    実際の伝記も読んでないですし、実在したジム・ブラドックについてはわかりかねますが、映画の中の彼はこの3者に対して何時いかなる時も背を向けず、最終的に全てのアイデンティティを確立し通した、という物語です。

    ① に関して、これは家族を飢えさせないという状況を再構築できた時点で物語としての推進力は薄れていきます。そして①を満たすことで最終的に③と向き合うことができるようになるわけです。

    e0039500_21183715.jpg② に関して、映画の中ではボクサーとして闘えなくなり、生活が窮することで夫婦として今までの装飾がはがれ、向き合う形になります。折らなければならないことだらけな中で、どんなに貧しくとも夫としてのアイデンティティの最終ラインは絶対に割らせないという妻を演じるのがゼルウィガーです。そして妻が③を確立する上での最後のキーという役割を持っています。

    ③ に関して、夫としての対面するのは妻ですが、ボクサーとしてはセコンドであるジョー役のジアマッティ。ある種、男の友情物語です。描かれ方としてはやや奇薄ながら、ジョーはスクリーン上ではリングに一番ちかい観客をして我々にスクリーンの向こうの空気と臨場感を伝える役目を負っています。ボクサーとしてということは多分に男としてのアイデンティティとも言えますが、ジョー無しではセカンドチャンスをもらえなかったわけです。最終的な確立はチャンピオンと真正面から対峙し、倒すことで自分がまた栄光のチャンピオンベルトを奪回してなされるわけです。そしてこの予定調和的なプロットは①と②を抱き込むことによって骨太なプロットにするというコンセプトだったはずです。

    よく言えば、この3本柱は比較的バランスよく描かれ、互いがプロットとしてよく絡み合っているという感じもします。本来は③がメインプロットなのでしょうが、①や②のサブプロットに厚みを持たせることで、より多くの老若男女を客層として取り込もうとしたばかりに、結果として3本柱になってしまっているとも受け取れます。3本丸々3本として楽しめるのならいいですが、3本になってしまっていることで、逆に観客がどこに焦点を当てて観ればいいのか迷わせてしまう結果となってしまったのかなとも思います。

    補足として、主人公ジムが最後に挑むチャンピオン役マックスをただの勧善懲悪的ヒール役に貶めてしまうのではなく、彼にキャラクター(顔)を持たせることで、ジムとマックスとのある種友情にも似たライバル関係に発展させようという試みが前面に出ていましたが、いかんせん、既に2時間を越える長さになっており、描ききれていなかったという印象も与えてしまう完成度でした。ボクサー2人を並列に描くことで、ボクサーの商品化され消費されるいずれ戦えなくなった時がお払い箱という宿命的な悲哀とそれに対するお互いのシンパシーが入り混じるところまではよく出ていたと思います。ただ、このサブプロット的な描写も線になるほど濃くなかったので、もしかすると、観客の視点を惑わすだけという形で作用してしまった可能性は否めないと思います。

    最後に歴史的バックグラウンドと主人公の人生とのシンクロですが、これを完全に消費できるのはその時代を生きたアメリカ人だけかもしれません。ジムは、アイリッシュ系移民ですが、最終的に貧しい生活を強いられている移民者たち全体の希望であり代表として描かれます。日本語ではよく「貧困に打ち勝って」だとかいう表現が前面に出されていますが、プロット上そこが最重要要素ではないと思います。逆から読めば、経済的弱者を背負うことでより多くの観客層を獲得しに行く姿勢が表れていますし、国自体の経済的恐慌とシンクロさせることで、「成せば成る。チャンスをつかめるのがアメリカだ。」というアメリカンドリームの発露的なモチーフを映画に付与するものだと思います。

    e0039500_21192451.jpg蛇足:ジェンダー的に見ると、どん底に耐え続け、そこから這い上がったその姿に「シンデレラ」という冠が付けられるわけですが、いわゆる男として、父として、夫として成功した「理想の新男」として見た場合に、「シンデレラ」という女性的な冠を拝して初めて成せるのかなと。冒頭に登場するラッセル・クロウの姿はなで肩で顔も丸く、いかついマックスとは非常に対照的です。まぁ、シンデレラストーリー=ハッピーエンドなので、タイトルから予定調和が始まると言ってしまうとそれまでなのですが、その予定調和をうまく壊して再構築仕切れなかったところが、興行にも響いているのかなとも思います。得てして、オスカー狙う映画ってのは必ずしも興行が爆発的に伸びる必要もないですからね。


    Depper


    参照:
    Varietyレビュー
    Eiga.comレビュー

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    by Corin_Depper | 2005-09-21 21:20 | レビューと考察
    『銀河ヒッチハイクガイド』のレビュー
    勧められるがままに、新作DVDの棚にあったので借りて鑑賞。普通に消費してしまいましたこの映画。というよりは、むしろ消化不良気味なのかもしれません。なにしろ、拾い切れませんから、引用が。『ラブ・アクチュアリー』や『オースティンパワーズ』なんかよりもずっとカルト的な引用ななされていそうなところはたくさんアンテナにかかるのですが、ほとんど消化できなかったのかもしれません。よって、今回はレビューというよりもかなり私的感想・印象論でいかせてもらいます。。。(汗)

    e0039500_1232618.jpge0039500_1205131.jpgまずは・・・、ロゴ。。。DVDの表紙もほぼ同じ画が載っていましたがが、このロゴを見た時にもう「NOW56」にしか見えません。その時点でもうアートシネマではないなと・・・心構え。しかし、途中挿入されるアニメーションはビートルズ映画『イエローサブマリン』を想起させる印象でした。

    そしてなにより、中身はすっごくイギリス。言い回しから、間から、リアクションから、風刺の仕方から、とにかくイギリスですね。ここが一番楽しめたところかもしれません。ビジュアルはいいでしょうけど、やはりこの手の映画は原語での情報が抜けると面白さ半減してしまうのではないかと思われます。すっごくアメリカな『チームアメリカ』にも同じことが言えそうですが。
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    そして、次に意識するのがやはり『スターウォーズ』。イギリスでは公開がエピソード3とかぶっていることからも、対抗意識かはたまたその人気にあやかって相乗効果を狙ってかわかりませんが、ある意味対極的な宇宙がそこにはありました。日本の公式サイトでは、なぜか「H2G2.jp」になっており、どう略すとそうなるのかわかりませんが、明らかに『スターウォーズ』のR2D2を意識しているものと解釈してしまいます。配給元もその路線を考えているに違いありませんね。↑のシンボル的ロボットは足があるのにR2D2以上に歩みが遅く、しかしいつも楽観的なR2D2とは対照的にこのロボットはいつも悲観的で相当です(笑) あ~もうこんなところまでイギリスですね。
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    個人的に楽しめたのは、主人公の相棒を務めるMos Defの演技でしょうかね。主人公とは対照的にどこかやはりイギリス的ではないです。まあ、製作がUS/UKの合作なのでそこらへんの対比もみどころなのかな。

    あとは、気になるところはやはり、モチーフ。意味があるのかないのか。まだ深く考えようともしてませんが・・・。42・・・。タオル・・・。まぁ、何はともあれ、最終的なナラティブの構造であるこの映画の世界観くらいバーチャルであったら、いっそもっと平和な世の中に作り変えてくれと言いたくなった鑑賞後でした。何が起きても、たとえテロが起きても“Don't Panic!”ということでしょうかね。

    Depper

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    追記:
    H2G2はヒッチとハイク頭文字でH2で、ガイドとギャラクシーの頭文字でG2でした・・・。オリジナルタイトルは『The Hitchhiker's Guide to the Galaxy』です。

    公式:
    http://www.movies.co.jp/h2g2/(日本語)
    http://hitchhikersmovie.com/(英語)
    参照:
    Eiga.com「銀河ヒッチハイクガイド」レビュー
    http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=322085(Allcinema Online)
    http://www.imdb.com/title/tt0371724/(IMDB)
    http://www.ukinfo.jp/culture/hitchhiker.php(UK Info)


    追記:
    Googleに「answer to life the universe and everything」で検索を掛けてみると42という結果が出てくるそうです。
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    by Corin_Depper | 2005-09-13 02:00 | レビューと考察
    『ブラザーフッド』の優等生的構造について少し考える
    e0039500_0591084.jpgDVDにて韓国製作映画『ブラザーフッド』を鑑賞しました。優等生の映画だなと思わされました、と同時になるほどなぁと思わされたところを少し解体してみようかと。

    前提として、この映画は戦争映画とまず最初に銘打っていいでしょう。常にナラティブの軸が戦争ですし、その軸から主人公2人も離れることができていません。そして、この映画は戦争映画の中でも陸での戦争映画ですね。航空機は下から眺めるだけですし、パイロットなどの顔は一切出てきません。もちろん海でもないことは明白。更に空・海がロマンとスペクタクルであるなら、地上戦映画ジャンルと言えば「リアリズムとヒューマンドラマ」、こうした起源は『西部戦線異状なし(1930)』などで確立されたもので、その古典的オーソドックスなポイントをおさえているという意味も込めて優等生です。

    少し他のレビューも眺めて見ましたが、『プライベートライアン』と結び付けられているものが非常に多かったです。大規模な地上戦映画と衝撃的な銃撃戦などの描写もそうでしょうが、これはビジュアル的な影響もあるだろうなあと思います。eiga.comの映画評では骨格が『プライベートライン』と言っていますが、地上戦映画ジャンルの骨格と受け取って、その骨格を↑出述べた「リアリズムとヒューマンドラマ」とするならば、その骨格は『西部戦線異状なし』から来ているものと思われます。とりあえず、『ブラザーフッド』のビジュアル操作を比べてみましょう。

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    一目瞭然ですが、どう見ても構図が同じですね。『ブラザーフッド』製作側がこれを意図してマーケティングをしたのなら優等生です。逆に無意識的に我々が比べてしまうのも無理ありません。

    では、少し(かなり簡単に)中身の構造について。『西部戦線』は若者の主人公の無垢な視点で描かれますし、それが現実味を持たせます。そういう意味では『プラトーン』に近い。『プライベートライアン』は若者兵士をまとめるいわば会社で言えば中間管理職的立場の視点で、どちらかというと国、つまり「公」を背負っている立場の視点ですので、逆に統率する若者の私的感情が浮き彫りになります。『ブラザーフッド』ではこの両者が同時に主人公として存在します。

    視点をジェンダー的に変えると、戦争映画というよりも、目的を持った男の集団(ヤクザやマフィアなんかもそうですね)には自然と父親像、母親像を作るのが映画ジャンルでいう常套手段です。『プライベートライアン』の主人公は隊を束ねる言わば父親的存在です。そして、『西部戦線』の主人公は養われる羽の生え揃わない(兵士として)子供です。(蛇足ですが、『シンレッドライン』ではジョージクルーにーがまさにこの関係をわざわざ口に出して兵士に説きますね。『プラトーン』では主人公がまさに上官二人の間の子供だと吐露しますね。)そして、『ブラザーフッド』にはこの両者が同時に二人の主人公として存在します。

    これらのあわせ技一本とした構図は、優等生のある種の冒険というか挑戦として注目に値しますし、どちらの立場にも感情を移入させることができるので、より広い客層を取り込める。更に面白いのは、父親的存在がすごく私的感情で動くのに対し(共産主義も民主主義も関係ない)、子供の立場であるものがすごく社会常識・規範(常にモラルで物を見る)で動く。更に更に言えば、兄貴の方はすごく精神的にホモであるのに対し(少なくともそう思わせる描写をしている)、弟はいわゆるホモに対する恐怖観念(Homophobia)を見せる。なぜ婚約者より自分をとるのかが理解できないのだ。深い(義)兄弟愛というのはある種精神的ホモであると言ってしまえばそれまでだが。
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    そして最後に付け加えるとすれば、ブロックバスター映画には欠かせない構図「家族」と「少年から大人へ」という通過儀礼的なもの。少年(弟)は父親のような兄を盲目的に愛されるところから、反抗し、決別し、そして最後に許すという一連の儀式を済ませて大人になって(自分が今度は父親となる準備を整えて)家族、母の元へ帰っていくのだ。父親的な兄が対戦する北へ寝返ったときその図式は「ダースベーダーとルークスカイウォーカー」であり、最後はその死を踏み台にして最終的な成長を遂げて、それがそのまま映画の終幕となる。ある種のオエディプス(父殺し)儀礼ですね。彼らの体格的な違いを見てもこの構図を強く印象付ける。この構図まで取り込んでしまっているところに、非常に忠実に優等生として製作された映画であることを改めて思わされた。

    『ブラザーフッド』は戦争映画として「優等生」なのだ。こういう教科書に沿った優等生な映画を日本映画界は果たして製作できるのだろうか。この優等生さというか、大衆受けする要素をうまく取り入れたところが、国境を越えてイギリスでDVDリリースということになっているのだろう。
    Depper

    公式:
    『ブラザーフッド』公式HP

    参照:
    『ブラザーフッド (2004)』(Allcinema Online)
    『プライベート・ライアン (1998)』(Allcinema Online)
    『西部戦線異状なし (1930)』(Allcinema Online)
    『ブラザーフッド』映画評(eiga.com)
    ブラザーフッド DVDプレミアム・エディション(アマゾン)
    『西部戦線異状なし』スティール写真集
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    by Corin_Depper | 2005-09-09 03:21 | レビューと考察