• 映画を少しばかり外から眺めてみるそのカタチ
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    カテゴリ:レビューと考察( 47 )
    映画書レビュー『A Hundred Years Of Japanese Film』
    『A Hundred Years Of Japanese Cinema』
    著者: Donald Richie (ドナルド・リチー)
    e0039500_1335749.jpg

    書評といえるほど読み込んでいないので、レビューという形に留めます。

    2001年に出版された同タイトルの改訂版という体裁のもとに改めて講談社から出版されたものです。これの日本語翻訳版が出版されているかどうかは定かではありませんが、アマゾンJAPANにも英語のレビューしか載せていなかったので改めてここで私的ながらレビューを書いてみることにしました。

    日本映画研究の開祖とも言うべきドナルド・リチー氏が数十年の歳月に渡って貯めた日本映画に関する知の結晶とも言うべき一冊であり、日本語・英語とバイリンガルな人物の書いた映画書としても希少価値の高い書であると言える。弁士の時代から戦前・戦後にかけて、日本映画の歴史的推移やその考察と主眼は徹底されていて、弁士とは何か、時代劇とは何か、その時代の日本映画を知る上ではバイブル的一冊と言えるのではないだろうか。戦後から80年代にかけての章も目を見張る内容となっており、ここまでの流れを歴史的に追うにも良い書であると思う。

    さて、2001年版でもそうであったが、今回版も新たに2001年から2005年までの日本映画についての考察・議論が追加されている。これまでの章とはうって変わって比較的に内容の薄いものとなっているといわざるを得ない質量で、ここ10年単位での彼の考察眼と議論の成熟度もこれまでの時代のものに比べると質が低いように思う。柔軟な見地から柔軟な議論が展開されておらず、彼の現代映画監督や作品に対する好き嫌いの臭いすら立ち込めてしまっているのがわかる。もちろん現代映画を捕らえることは生半可な作業ではないのだが、ここでも彼の日本映画研究スタイルの限界を逆に垣間見ることができる部分でもあり、皮肉にもこれからの日本映画研究に対するアンチテーゼのような形に受け取れるのは私だけであろうか。

    以上において、日本映画を歴史的な流れとともに80年代まで追いたい場合には教科書的な役割のできる一冊となっているが、現代日本映画を知る上ではあまり実りをもたらすものになっていないと言えるのではないだろうか。最後に、皮肉を感じざる得ないのは、リチー氏がかねがねあまり気に入っていない北野武監督の作品『座頭市』とビートたけし演じる座頭市の姿が書の表紙となっている点であろう。これは講談社側の出版条件であったと言われている。

    Depper

    参照:
    アマゾンUK
    アマゾンJP
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    by corin_depper | 2006-02-25 02:09 | レビューと考察
    『Oliver Twist』と「家族」
    前回はオリバーにとっての「家」はブラウンロー家であると考えた後、「Why are you so sad??」(何故そんなに悲しそうな顔をしてるんだね?)…そう、オリバーは「本物のベッド」がある「家」を手に入れても「悲しい」のです。という所まで書いてまいりました。今回は「家」ではなく、「家族」に焦点を当てて、オリバーが「悲しい」理由を考えていきます。

    前回の投稿に合わせて説明すると、オリバーは「孤独だけが友達」のまま1st candidateであった救貧院でも、2nd candidateであったサワベリー家でも「家族」を見つけられず、ロンドンに出ます。そして…

    [ stage4: 3rd candidate ]
    e0039500_4313014.jpg

    第三の「家族」候補であるフェイギンとその手下たちです。「ゲーム」を見たオリバーはこのシーンで初めて笑顔を見せ、声を出して笑います。ちなみにこのシーン以降、声を出してオリバーが笑うことは二度とありません。ここでオリバーは「外へ出たい」=仲間のようにスリをしたい=この「家族」の一員になりたいという意志をフェイギンに告げ、フェイギン相手にスリ・デモンストレーションを見事にこなして見せます。しかし…

    [ stage 5: 4th candidate ]
    e0039500_4315691.jpg

    スリ・デビューの日、フェイギン一家の一員になる目前にして、仲間のスリを目撃され逃げ遅れたオリバーは第四の「家族」候補ブラウンローに保護されます。綺麗な服を着て居間に下りてきた際に交わす会話から推測するに、保護されていたのはほんの数日(もしくは1日?)。その会話の内容にオリバーの「出ていかなければだめですか?」という発言があり、「ここにいたい」という意志が見えます。オリバーにとって「家族」候補がブラウンロー氏になりますが、その日のうちに…

    [ conclusion: Fagin as Oliver’s family / father ]
    e0039500_432863.jpg

    本屋にお使いに行く途中、無理やり第三の「家族」候補であったフェイギンのもとに連れ戻されます。「Help!!Help!!」と抵抗していることから、オリバーのなかではブラウンロー氏が未だ家族「候補」です。ドジャーたち手下も、オリバーにとってはもはや仲間でも家族でもなくなります。

    まもなく、強盗。オリバー重症。

    怪我をしたオリバーはビルに早々始末されそうになりますが、フェイギンが先延ばしにさせて匿い、治療します。そこでオリバーはフェイギンに再び心を開き、感謝するようになります。そして、オリバーの深い傷口にフェイギンが緑色をした秘薬:「父から息子へと受け継がれる薬」を塗って埋めたとき、オリバーはフェイギンの「息子」になり、フェイギンはオリバーの「父親」に…。このシーンは、物理的な外傷の治療だけではなく、心理的にもオリバーの「家族のいない傷」をフェイギンが「保護という薬」で癒したとも考えられ、二人が「親子」になる儀式的な意味を持っていると考えられます。

    しかし、「オリバーの救出劇」が始まります。重要なのは、この後に起こるナンシーの密告、フェイギンの「家」からの退去、ビルの人質、そして警察・ブラウンロー氏による保護といった一連の出来事は、「オリバーの救出劇」として描かれているものの、実質的にはオリバーの意志が全くといっていいほど絡んでいないということです。つまり、彼は受身なままブラウンロー氏の「家」に辿りついてしまいます。

    そして、そして、しつこいですがもう一度。
    「Why are you so sad??」(何故そんなに悲しそうな顔をしてるんだね?)
    by ブラウンロー氏
    オリバーはもう一度「父親」であるフェイギンに会いたい意志をブラウンロー氏に告げます。面会直前で意思確認をするブラウンロー氏に、オリバーは「僕の望みです。」と答えています。

    フェイギンと再会したオリバーは次のような会話を交わします。
    オリバー:「You’ve been kind to me」(あなたは僕に親切にして下さいました)
    フェイギン:「I’ll be kind again, I’ll be kind again…」(また優しくしてあげるよ、また優しくね…)
    この言葉を聴いたオリバーは泣きながらこう叫びます
    「神様、許してあげて!!」
    しかし、オリバーの望みも虚しく、「父親」であったフェイギンは絞首刑に処され、オリバーはやっと得た「家族」を失います。

    よって、この映画はオリバーにとっての「家」と「家族」が一致しないまま、また「家族」を得られないまま結末を迎えてしまうことになります。

    では、なぜ「ブラウンロー氏=オリバーの父親」ではないのか。その理由は物語上ブラウンロー氏とオリバーの繋がりが発展していないためです。この二人を「親子」にするほどの関係描写がなく、薄い。最初の投稿で述べたとおり、予告編でもブラウンロー氏の存在が完全に無視されていたことからもわかります。エンディング、馬車のなかでオリバーとブランロー氏のツーショットが続きますが、ブラウンロー氏がオリバーの肩を抱き寄せてもオリバーは笑っていない。なんか、正直ドナドナみたく見えてしいました、私には。以上の点では、この映画はハッピーエンディングとはいえないかもしれませんね。

    Corin

    公式:
    http://www.sonypictures.com/movies/olivertwist/site/(英語)
    http://www.olivertwist.jp/(日本語)
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    by corin_depper | 2006-02-05 04:46 | レビューと考察
    『Oliver Twist』と「ベッド」と「家」
    昨日劇場で見てきました、『Oliver Twist』。今回は適当な静止画がないため少々キツいのを承知で、「ベッド」という要素を手がかりに『Oliver Twist』という作品を分析してみたいと思います。前回の投稿でも書きましたが、オリバーにとっての「家」、そして「家族」とは一体何だったのでしょう?今日はまず、「家」に焦点を置きます。

    [ stage1: no home, no family ]
    映画のオープニングシーンは、オリバーが孤児として救貧院に連れて行かれるところから始まります。つまりこの時点で、オリバーは「家」がありません。

    [ stage2: 1st candidate ]
    e0039500_3532294.jpg

    そして救貧院に到着します。救貧院はオリバーの最初の「家」候補ということになります。ここでのベッドは広めの部屋に何列と並べられた、ただの箱のようなものの中の一つ(写真参照)。隣の子供が空腹のせいでオリバーを食べてしまうかもしれないと発言していることから、ここでのベッドは寝床どころか、オリバーの命さえ保障できないものとなります。

    [ stage3: 2nd candidate ]
    e0039500_354641.jpg
    はずれくじを引き、おかわりを求めたオリバーは罰として救貧院を追い出されることになります。そしてたどり着くのが、葬儀屋のサワベリー氏の家。オリバーの「家」第二の候補です。ここでのベッドは、棺のなか…、と命令されたオリバーですが、机の下に寝床をこしらえてます。物理的条件としては救貧院より悪いですね。ただ、安全性は高いです。

    [ stage4: 3rd candidate ]
    e0039500_3544124.jpg
    父親になる可能性の高かったMr サワベリー氏ですが、母親の悪口を言われ暴れたオリバーに鞭を打ち、失格。次の「家」を捜し求めてロンドンへ7日間歩き続け、出会ったのがフェイギンとその手下たち。オリバーにとって、第三の「家」候補です。最初の日オリバーは今のソファーのようなところに寝かされていますが、逃げ出した後、また銃で怪我をした後は、一人部屋でベッドが備え付けられているので、そこで寝泊りしていると考えられます。個室にある一人用のベッドということで、救貧院よりもサワベリー氏宅よりも条件がいいです。

    [ stage 5: 4th candidate ]
    e0039500_3551996.jpg
    さて、いろいろ紆余曲折を経た後、ついに最終候補のブラウンロー氏に出会います。さすがは上流階級。天蓋つきベッドです。もちろん広い個室も与えられています。フェイギンの隠れ家に連れ戻されたあと、オリバーははっきりこう言います。「本物のベッドで寝た」と。英語では「proper bed」と言っていました。つまり、彼にとって他の候補宅のベッドは「偽物」であり、ブラウンロー氏宅の天蓋ベッドこそが「本物」と考えているわけです。

    [ conclusion: Brownlows as Oliver’s home ]
    最終的にオリバーはブラウンロー氏の養子になり、「本物のベッド」のあるブラウンロー宅に住むことになります。よって、オリバーにとっての「家」は第四の候補であったブラウンロー氏宅ということになり、それが叶った『Oliver Twist』という物語はハッピーエンディング…………


    しかし、ブラウンロー氏はこうオリバーに尋ねます。
    「Why are you so sad??」(何故そんなに悲しそうな顔をしてるんだね?)

    そう、オリバーは「本物のベッド」がある「家」を手に入れても「悲しい」のです。あれ、ハッピーエンディング…じゃないのか??というわけで、次回はオリバーの「家族」に焦点を当てて考えます。あれ、これ長期戦…??

    Corin

    公式:
    http://www.sonypictures.com/movies/olivertwist/site/(英語)
    http://www.olivertwist.jp/(日本語)
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    by corin_depper | 2006-02-01 04:04 | レビューと考察
    『Oliver Twist』に幸せはやってくる?
    昨日から公開が始まった『オリバー・ツイスト』。最近ではテレビでCMがバシバシ流れてますが、一言いいたいのは、どうして宣伝曲まで日本語の歌に替える必要があるんですか?劇場で流れていたトレイラーは、優雅なオーケストラのBGMですよ。チャールズ・ディケンズの名作&19世紀ロンドンを舞台にした映画に、わざわざ日本の(韓国の?)ポップ音楽にBGM入れ替えて、某お●ぎさんに「絶対観なさい!!」と脅迫されて、一体何を売りにしたいんでしょう?ていうか、売る気はあるんですかね?がっかりです、まじで。

    さてさて本題に戻りましょう。この映画は帰国前に一度イギリスで見ました。そのとき感じたことは、2つ。
    ①まずは、オリバーの意志が読めないこと。
     (オリバーの感情が物語のなかで十分に展開されていない。)

    ②そして、そのせいでオリバーの「幸せ」という焦点がぼやける。

    では、予告編で簡潔に話の流れをつかみましょう。
    e0039500_1973575.jpg
    「オリバー、9歳、孤独だけが友達だった。」
    e0039500_1984981.jpg
    「オリバー君、フェイギンと申します。」
    e0039500_1991760.jpg
    「あなたのことは一生忘れません」
    エンディングで何が起こるかというと、オリバーは予告編では完全に存在を無視されている裕福なブラウンロー家の養子になります。果たして、オリバーにとっての「家」、そして「家族」(=「幸せ」)とは何だったのでしょう?フェイギンとその手下たちのグループ?それともブラウンロー家?

    詳しくは明日劇場でもいちど見てから、整理して書きたいと思います。まずは問題提起まで。

    ちなみに、日本の宣伝用キャッチコピーは「涙のあと、幸せはやってくる」です。えええええっっっ!!まじですかっ!!??
    Corin

    公式:
    http://www.sonypictures.com/movies/olivertwist/site/(英語)
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    by corin_depper | 2006-01-29 19:34 | レビューと考察
    『Pride and Prejudice』 のエンディング・シーンについて
    さてさて、先の投稿で幾つかElizabethの父親(Mr Bennet)についてのコメントを頂きました。実はもともと父親については投稿でちょっと言及する予定だったんですが、長くなりすぎるため削除したので、今回改めてフルバージョンで投稿します。

    突然ですが、この映画の最後は、Mr DarcyでもElizabethでもなく、Mr Bennetの泣き笑いで終わります。ご覧になった方、覚えていらっしゃいますか?一体、これは何を意味しているのでしょうか?

    e0039500_5371756.jpg思い出してみましょう。父親はMr CollinsのプロポーズからElizabethを守ったことからもわかるように、妻であるMrs Bennetとは対極して、「財産のための愛のない結婚」に反対の立場を示しています。つまり、Bennet家のなかで、ElizabethとMr Bennetは「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」という偏見を共有する親子関係を築いています。

    そして、まず先にElizabethの「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」という偏見が、姉Janeの結婚によって崩れ去ります。この時点で、Elizabethは父親との思想を共有する関係から抜け出します。父親を離れ、「階級も財産も関係ない愛のある結婚」をオファーしたMr Darcyと夫婦としての関係が始まるわけです。

    そこで次に思い出したいのが、Mr Bennetの泣き笑い+台詞ショットの手前、ElizabethとMr Bennetの会話シーン。簡潔に内容を追ってみると…
    父「俺ってばてっきりおまえ(Elizabeth)はあの男(Mr Darcy)のことを嫌いだと思ってたぞ。」
    娘「実はそうだったんだけど、私ってば完全に彼について誤解してたの。」
    父「財産のために結婚するんじゃないんだな?」
    娘「違うわ。」
    父「彼を愛してるんだな?」
    娘「ええ、愛してるわ。とっても愛してるわ。」
    父親は結婚する娘に「財産のため」ではないこと、「愛がある」ことを確認しています。これは父親がまだ「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」(+娘の不幸せ)という偏見を抱いているためです。しかしElizabethの言葉を受け、父親の偏見も崩壊せざるを得なくなります。つまり、ElizabethがJaneの結婚によって偏見を失ったように、父親はElizabethの結婚によって偏見を失ったことになります。それは同時に、娘Elizabethとの今までの親子関係が崩壊したことの理解でもあるわけです。

    そして泣き、笑いながら、
    「If any young man've come for Mary or Kitty, for heaven's sake, send them in. I'm quite at my leisure, ahaha, hahaha…」(メリーとキティの相手になる男がいるなら連れてきなさい。えらく退屈してるんだよ、あはは、ははは…)←またすげぇ意訳でごめんなさい。
    と発言します。

    e0039500_5421145.jpgこの台詞からわかるように、Elizabethと「財産目当ての愛がない結婚」(+娘の不幸せ)を避けてきた父親が、まだ結婚の決まっていない二人の娘MaryとKittyの「階級も財産も関係ない愛のある結婚」(+娘の幸せ)を求める父親に変身しています。台詞のなかの「ANY」が示すとおり、労働階級はもちろん、今まで不幸せになってしまうと思っていた上流階級の相手でも関係ありません、偏見はもうないわけですから。また、この台詞は妻であるMrs Bennetに向かって投げられていると考えられるので、妻同様、娘の結婚に前向きな夫にもなったことがわかります。

    と、こんな長々書いたわけですが、以下に集約できます。
    e0039500_535335.jpg
    最後にMr Bennetの変化を映し出したことで、この映画はElizabethとMr Darcyだけのハッピーエンディングではなく、結婚をめぐって分裂していたBennet家のハッピーエンディングにもなったということになります。そんな『Pride and Prejudice』は、単なるロマンスではなく、家族の絆の話でもあるということですね。未見の方は是非。
    Corin

    公式:
    http://www.prideandprejudicemovie.net/splash.html(英語)
    http://www.pride-h.jp/(日本語)
    参照:
    http://www.workingtitlefilms.com/film.php?filmID=38(Working Title Production)
    http://www.imdb.com/title/tt0414387/(IMDb)
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    by corin_depper | 2006-01-20 05:50 | レビューと考察
    オープニングに見る『SAYURI』
    A story like mine... has never been told....e0039500_2225361.jpgということでね、様々な意味で話題の映画『SAYURI』ですが、前回の考察からまたもうひとつ踏み込んで書いてみたいと思います。

    e0039500_22174020.jpg前回は「視線」「見る・見られる」という点でこの映画を見るといろいろと見えてくるものがある、というところから始まり、



    芸者が全ての男の視線・ファンタジーを一手に集めるため存在(a object of every man's fantasy)であると映画の中でもナレーションで語られるように、最終的に、この映画は映画として「西洋人の西洋人による西洋人のための映画」というところまで書きました。つまり、元々日本人にアピールするために作られてないということがよくわかるわけです。

    e0039500_22242756.jpge0039500_22252563.jpg






    極端に表わすと、↑→という構図ですね。。。(苦笑)

    というところを踏まえた上で、今回の本題に入りたいと思います。

    まず、言語の機能から入りたいと思いますが、基本的にこの映画の台詞は「英語」で行われます。なぜって、原作が英語ですしね、製作もアメリカですし、個人的にはそれが普通の流れかなと思います。原作は未読ですが、映画内の台詞はほぼ原作通りになっているということですし、これを日本語に訳した台詞となるとまた映画の情報と意味合いが変わってきますね。原作との比較考証はまた別の切り口なのでこの辺で。

    次に、もう少し映画的な話をしますと、注目すべきは映画のオープニングシーンだと思います。典型ハリウッド映画は往々にしてそうなのですが、最初の10分にこの映画の全てのエッセンスが詰まってるといってもいいのではないでしょうか。

    e0039500_2325615.jpge0039500_2332667.jpg






    映画の始まりはすごく暗くオドロオドロしい映像で始まります。一瞬ホラーかと思うくらい(苦笑)。『市民ケーン』のオープニングを思わせましたね。そしていきなりチヨの「覗きの視点」で私たちはチヨの父と瀕死の母という切羽詰った状況を突如目の当たりにするわけです。そしてわけもわからず売られていってしまうわけですが。。。解説的な説明もなく突然始まるこの状況は少なからず観客にある種の混乱と驚きを与えるはずです。特に西洋人に対しては。なぜならここは日本語台詞で行われるからです(原作はもちろん英語ですが)。さらに、話によれば、字幕が出ないらしいのです(日本国外で見た方はご報告お待ちしてます!)。つまり、日本語が理解出来なければこのオープニングはさらにわけがわからない状態ということになりますね。

    そして観客が唯一頼れるのはチヨの視点での映像のみ。
    e0039500_23195160.jpg
    チヨが見たものをただ見るしかないのです。つまり、多くの解説的な映像をもらえずに、チヨの視線と同化せざるを得ないということを訓練されるのです。この状況はチヨたちが電車に乗せられてハナマチに着くまで続きます。面白いのは電車でトンネルを抜けると、そこは「英語台詞の世界」なのです。この「トンネル」という機能も面白いのですが、それはまた後ほど。

    多少話しがそれますが、このチヨの一人称視点に頼るという構図は、ある種一人称視点ゲームと同じ効果を持たせているのかな、なんてことも頭をよぎりました。ドキドキ感増幅です。

    さて、チヨが売られてきてからも、「チヨが見たもの=観客が見れるもの」という構図は続きます。つまり、エスタブリッシュショット(位置関係を把握するショット)がないわけで、ある種の典型ハリウッドのルールブレイク(型破り)ということだと言えるでしょう。私たち観客はその町の全景や位置関係をかなり後まで知ることができずにここでもチヨの視線に頼りっぱなしという状況に置かれます。そしてチヨの顔のアップで彼女の目は青いという画を散々みさせられるのです。もう徹底してますね。

    e0039500_23211845.jpge0039500_23213243.jpg





    ↑チヨは上を見て下を見てのショットばかりですが、多くの情報は得られません。この視点に同化させられるしかない(特に西洋人の)観客はまさに「LOST!」という感覚ではないでしょうか。この辺はぜひ日本人以外の人に聞いてみたいところですね。そして(映画を通して一貫してですが)チヨがいかに狭い空間(社会)に閉じ込められているかという↓のような比喩的な(教科書的)ショットは嫌というほど出てきます。

    e0039500_23471640.jpge0039500_23475991.jpg






    そして、ある時観客にひとつのリデンプション(救済)的なショットが与えられます。これもチヨが見て初めて見れるのですけどね。それが以下↓

    e0039500_23262350.jpge0039500_23265244.jpg





    このショットまでがこの映画(物語)の序曲(もしくは前奏部分)だと言えますね。ここから世界がガラッと空間的に広がるのです。↑のシーンもある意味そうですが、チヨいくつもトンネルを抜ける度に物語は次のステージに行くのです。以下↓のシーンは彼女が「見る・覗く」存在から「見られる・覗かれる」存在、つまり芸者になるという意思の発露が見られます。それは得てして会長さんへの恋心という動機付けがあるわけですけどね。男性が出てくる=チヨの覗く役目は終わり、次は覗かれる・見られる芸者になりなさい、ということですね。
    e0039500_23315067.jpg
    そして、ここからは芸者、つまり仮面をかぶったサユリのお話。チヨの欲求とサユリで居なければ存在できないという2層式構造に苛まれ、彼女の想いは叶わないというストレスをためるだけ貯めてあとは最後のメロドラマ的ハッピーエンドということになりますね。もう後は見たい人が見たいように見たいだけ見ちゃってください、と言わんばかり。

    映画冒頭の日本人にしてみたら「そうなの?」と思ってしまうようなナレーションa story like mine... has never been told....(私のような物語は語られたことがない)というのもそうですけど、この映画のオープニングを「視線」に注目して見るだけでも、いかにこの映画が「西洋人の西洋人による西洋人のための映画」として作られているというのがわかるかと思いますが、どうでしょう。

    おまけ
    e0039500_23494468.jpge0039500_23503436.jpg





    ↑「鏡」ショットも結構多く出てきて、どぎついですが、いかにチヨがGeishaサユリという仮面をかぶっていて、その幻影的な姿が鏡に反射されているのか、という意味を押し付けてきますね。徹底しているといえばそれまでですが、このあたりの徹底ぶりはGeishaという存在に疎い西洋人観客向けなのではないかな、と思うわけでした。
    Depper


    参考:
    華の宴*Life at Night*
    ↑舞妓、芸妓を経験した方のブログで、大変勉強になりましたー。
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    by corin_depper | 2006-01-17 00:16 | レビューと考察
    Whose and What kind of 『Pride and Prejudice』??
    e0039500_23114037.jpgイギリスで去年10月に一度見たのですが、レビューを書くには記憶がおぼろげになりつつあったので、本日再度鑑賞してきました。『プライド偏見』というタイトル、ちょっとtrickyです。この映画、「プライドが高く傲慢で偏見を持った上流階級のMr Darcy」と「中流階級のElizabeth」の物語ではないんですよ。結果から言うと、「上流階級のMr Darcy」と「プライドが高く傲慢で偏見を持った中流階級のElizabeth」の物語です。

    Elizabethの生まれたBennet家は中流階級(Middle class)。息子なしの5人娘なので、父親のMr Bennetが死んでしまうと家を相続するものがいなくなり見ず知らずの親戚の手に渡ってしまうため、母親のMrs Bennetは娘をいい家(夫の死後自分を義母として養ってくれるお金持ちの家)に嫁がせたいと必死です。そんななか、Elizabethは常に一人Bennet家から一歩距離を置いている存在。彼女は他の姉妹にはない知性を持ち合わせており、教養もなく娘を玉の輿に乗せることしか考えていない母親、そして教養もなく玉の輿に乗ることしか考えてない妹たちにうんざり。パーティーで「うちの家族ったら競って恥をさらしてるわ」と発言していることから、明らかに彼女は母親と姉妹を「恥」だと見下していることがわかります。つまり、彼女は中流階級のBennet家の一員でありながら、実はその社会から抜け出しているアウトサイダーでもあるわけです。
    e0039500_23302095.jpg
    彼女のアイデンティティを確認しましょう。
    ・自分の知性・マナー・考え方(総じてsense and sensibilityとでもいいましょうか)に絶対的なプライドと自信を持つ。

    一方で、

    ・上流階級に媚を売る中流階級(母親・妹)の態度に偏見を持つ。
    ・中流階級を見下す上流階級(ジュディ・デンチ演じるLady Catherine・Mr Bingleyの妹Caroline)の態度に偏見を持つ。
    ・そして何より、中流階級女性と上流階級男性の財産目的の愛のない結婚に偏見を持ち、許すことができない。

    自分のことを「他の中流階級の人間とは違う」と信じる彼女ですが、それと同時に結局は自分も中流階級の一員に過ぎないことを認めたくない強いコンプレックスも持っています。生活の安定を求め、Elizabethが忌み嫌う愛のない結婚をした親友のCharlotteに対する怒りと失望は、同じ中流階級であり同じ状況に立たされている自分もいつか同じような結婚をしなければならないのだという現実への怒りと失望でもあります。このように彼女は様々なプライド偏見でがんじがらめになっているわけですが、この「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」という偏見、そしてこの見解に間違いはないというプライドが物語のキーとなります。

    一方Mr Darcyは上流階級(Upper Class)の紳士。でもポイントは、彼はElizabeth偏見を持つような「中流階級を見下す上流階級」の一員ではないということです。Mr DarcyElizabethが初めて出会うダンスパーティーで、髪がブロンドでもなく宝石も付けずシルクではなく綿のドレスを着たElizabethに一瞬で目を奪われます。このシーン、明らかに彼女を見下しているMr Bingleyの妹Carolineのような上流階級の人間とは彼が異質であることを証明しています。Mr Darcyはこの映画のなかで唯一常に柔軟な変化を続ける存在でもあります。その変化は全てElizabethのためであり、Mr Darcyは彼女の前ではプライド偏見も持ち得ないのです。
    e0039500_2320834.jpg
    Mr Darcyの変化(とElizabethの不変化)を追いましょう。最初はダンスをしない主義の彼でしたが…
    ・「May I have the next dance, Miss Elizabeth?」とダンスの誘いをする。(⇔Elizabethは「You May」とそっけなく返事をする。)

    ・「I... do not have the talent of conversing easily with people I have never met before.」と対人コミュニケーションが苦手であることを告白。
    (⇔Elizabethは「Perhaps you should take your aunt(Lady Catherine)'s advice and practice.」と嫌味をこめて返事をする。)

    ・階級の差を無視してElizabethにプロポーズ(一回目)する。
    (⇔「階級の差を無視して」という発言に反感を覚え、姉とMr Bingleyの仲を引き裂いた理由に家族の品のなさと経済状態を指摘され(コンプレックスを逆撫でされ、また事実であり否定できないがために)キレる。)

    ・階級が下のElizabethと彼女の伯父伯母を自宅の宮殿へ招待し、最愛の妹を紹介する。

    Elizabethの妹Lydiaを救うために、自分の父親の愛を奪い、その愛を裏切り、そのうえ財産目当てにまだ15歳の妹にまで手を出したWickhamに資金提供をする。

    ・自分(本当はCarolineの仕業だったが…)が引き裂いてしまったMr BingleyとElizabethの姉Janeのキューピッドになる。
    e0039500_2318912.jpg
    この変化を見て、Mr Darcyプライド偏見Elizabethとの恋を邪魔していると思う人はいないでしょう。ではElizabethはどの時点でプライド偏見がなくなったのでしょうか。

    そこで思い出したいのが、前述した「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」という偏見です。Elizabethのなかでは、数々の出来事と歳月を経てMr Darcyは自分が偏見を持っているような上流階級の人間ではないということを、実は理解しています。つまり、Elizabethに歯止めをかけているものは、Mr Darcyへの偏見などではないのです。ではなぜ素直にMr Darcyのプロポーズを受け入れることができなかったのか。それは「中流階級と上流階級の結婚=財産目当て=愛がない」という偏見を打ち破ることができなかったからでしょう。彼女のプライドをかけた法則によれば、「ElizabethMr Darcyとの結婚=財産目当て=愛がない」ということになってしまい、それは彼女が心底許すことができないことで、いわば自己矛盾を起こすことになるのです。

    そのしがらみを解いてくれるもの。それが、Elizabethにとって姉妹のなかで唯一心を許すことのできる姉Janeの存在。彼女が(Mr Darcyの助けで)ようやくMr Bingleyと婚約したとき、ついにElizabethは涙を浮かべてこういいます。

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    「I've been so blind...」(私は何も解っていなかった…)←意訳でごめんなさい。




    中流階級のJaneと上流階級のMr Bingleyの財産目当てではない、愛のある結婚を目の当たりにしたとき、Elizabeth偏見は覆され、プライドも崩壊せざるを得なくなります。頑なに目をつぶって背いてきた事実(もしくは欲望)、それは偏見視などできず尊敬にも値するMr Darcyの存在と、彼がオファーしてくれた愛のある結婚。そして、「無知の知」の直後、Lady Catherineが訪問してきます。一見、Lady Catherineの物語への再介入なくElizabethMr Darcyがハッピーエンドになってもいいように見えますが、実はこのシーン、映画の中で非常に重要な役割があります。

    まず、このシーンはLady CatherineがMr Darcyの対極であることを観客に再確認させています。高慢な態度でBennet家をけなし、階級の差を理由にMr DarcyElizabethの結婚を拒絶する彼女の姿は、Elizabethが持っていた上流階級に対する偏見を体現するものです。そして次に、ElizabethがLady CatherineとMr Darcyとの差を認識できるようになったこと(前回Lady Catherineに会い無理やりピアノを弾かされたときにはElizabethのなかではまだMr Darcyも同類に過ぎなかった)を映し出し、そしてプライド偏見も崩壊したあとで自分が母や妹と同じ中流階級の娘であることを受け入れたことも確認できます。それを示すのが「Mr Darcyと結婚しないなどとは約束できない」という抵抗と、「できる限りの言葉で(家族ではなく)自分を侮辱された」という意識です。

    e0039500_23314626.jpg夜明けの(二度目の)プロポーズで、Mr Darcyは以下のように述べます。
    「you have bewitched me, body and soul, and I love... I love... I love you. I never wish to be parted from you from this day on.」
    でもね、実は魔法をかけたのはMr Darcyのほうで、魔法をかけられた(もしくは悪い魔法=プライドと偏見から解かれた)のはElizabethのほうなのではないでしょうか。
    Corin

    公式:
    http://www.prideandprejudicemovie.net/splash.html(英語)
    http://www.pride-h.jp/(日本語)
    参照:
    http://www.workingtitlefilms.com/film.php?filmID=38(Working Title Production)
    http://www.imdb.com/title/tt0414387/(IMDb)
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    by corin_depper | 2006-01-16 23:38 | レビューと考察
    改めてある視点から『SAYURI』
    e0039500_1921638.jpgイギリスに戻ってくるつい前日に祖国日本でようやく劇場鑑賞することができました、この作品『SAYURI』。前々から様々な騒音・雑音がありながらも、引っかかっている部分がいくつかあったのでそれを確認したくて、強引に時間を作って見て来ました。予定をずらされてしまった友人たち、スイマセン(苦笑)がしかし、それなりの収穫はありましたし、疑念は晴らされました。もちろん詳しい分析はDVDを待ちたいと思いますが、それでも、日本国内外でいままで見てきたレビュー等でほとんど触れられていない着眼点を「ある視点から」ということで2,3挙げてみたいと思います。

    →この画像はイタリアで使われたもののようです。



    最初に感想から入りますと、この映画もしくは監督ロブ・マーシャルは観客に媚びてないな、と。言い換えると日本人には媚びてないな、と思いました。逆に日本人の視線はあえて無視すらしているように思えますし。つまりは、やはりこの映画は日本人以外の人たち(多くは西洋人)のために作られたような映画ですね。そのことが「ある視点」から見るとよくわかるのです。これは、日本と海外のプロモーションの仕方を見ても明白です。そしてそれは映画の中で背骨になるものでした。詳細参照ページ要するに、逆に日本人としてこの映画を真正面から見てしまったら、映画の中の世界に入らせてもらえない分ストレスが多いのは言うまでもないですね。そうすると、そういう人たちの視点はクリティカルにならざるを得ない。といったところでしょうか。つまりね、この映画内におけるカメラの視線、それは全く持って日本人が有するものではないのです。逆に日本人の方が客観視を余儀なくされるために、批判に行ってしまうのではなく、分析眼とすれば日本人にしか書けない『SAYURI』論ができるのではないかとすら思います。
    e0039500_20553239.jpg

    「ある視点」としたように、この映画で明らかに意識されている観念とその表現手法は
    「視点・視線」
    にしゅうやくされるのではないか、ということです。これは「視点・視線」の物語と言ってもいいかもしれません。これを軸にしたらこの映画でそれなりのものが書けるのではないかなと思います。少し順を追って説明してみたいと思います。運よく(たぶん)キャプチャー画像を大量に置いてあるファンサイトが見つかったので、そこからいくつか拝借して様々な類の「視点・視線」を列挙していみたいと思います。

    まず、興味深いのが
    チヨサユリ」という2面性
    です。ここが機能として面白い。ヒントは青い目が教えてくれます。この映画ではやはり
    「青い目=西洋人の目・視線」
    ということになります。その目を通して彼らはこの映画を堪能する、いわゆる演劇で言う客席から(映画)舞台を眺めることができるのです。そして幼少時代のチヨを色濃く描写することによって、観客はその目から見るということをきっちり訓練されて、いざGeishaの世界を堪能するのです。それがわかるのはチヨは常に凝視・注視する存在であるということです。いきなり連れてこられたチヨはまさにこの映画に連れてこられた西洋人の観客と一緒なのです。つまり、チヨは
    「見る・覗く存在」
    なわけです。

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    e0039500_20125847.jpge0039500_20175992.jpg





    一方で、芸者となったサユリは商品として、エキゾチズムの権化として、
    「見られる・覗かれる存在」
    です。その存在になるためには一種のトランスフォームを経なければなりません。つまり、芸者になるための変身です。それは化粧であり、艶やかな着物であり、アクセサリーであります。これが整うと、チヨはサユリになり皆の視線を集める・凝視されることを命題とするGeishaという商品になるのです。余談ですが、この辺はまさにローラ・マルヴィ女史参照ページ)の著名な『ビジュアルプレジャーとナラティブシネマ(視覚快楽と物語映画)』議論における「To-be-look-at-ness(見られる存在)」なわけですね。逆に、ここに辟易としている人にとっては余りに直球描写なので目に付いて仕方ないかもしれません(苦笑) それはさておき、その視覚効果を高めるために、覗き見的な構図と描写が行われて、サユリがいかに見られる立場であるかをこれでもかと見せ付けます。

    変身・トランスフォーム
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    見られる存在
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    抑圧された(女性としての)サユリ
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    ↑の画を見ると一目瞭然ですが、変身(メーク)のシーンなどはいかに芸者が仮面をかぶるのかを見せたくて監督がわざわざ挿入したような印象です。さらに印象的なのはサユリの姿は常に何かに切り取られているような構図ではめ込まれていると言えるのではないでしょうか、ヒッチコックの『裏窓』じゃーないですが「窃視の構図」としてはありきたりな画ですね。右下の車の中の画はまるでショーケースに入れられたサユリという状態で非常に面白い画です。その観点で言うと、芸者=商品、がしかし、商品=生身の人間(女性)、その関係での軋轢と摩擦。これもまた使い古された感のある思想と映画内の表現ですが、一応抑えておこうかと思います。ある意味監督は古臭いとわかっていながらわざわざ丁寧にそこまでやさしく表現したのではないかなとすら思いますね。そういう国・時代のお話ですから。そこをあえてきちんと映像表現するあたり、個人的にロブ・マーシャル監督は優秀というか、潔いなと思います。ここを批判の的にしている人はある意味お門違いというところだと思います。そこはもう映画論的にも語りつくされたところということもありますからね。

    女性、女性、ではつまらないので男性の視点も考えてみることにします。一度変身を遂げて見られる存在のGeishaとなったサユリですが、見る存在であったチヨの消失を意味するので、見る存在がいなくなってしまいます。このときに出てくるのが
    「男性の視点・視線」
    なわけです。機能的なことだけで言えば、いわばチヨの代わりに使われているに過ぎない男性陣(苦笑)。ここから視点は性を伴うので、人によっては目に付いて嫌かもしれませんね。Geishaサユリの体は部分部分で切り取られて描写されたりしますからね。これもまた古典的ですが。

    チヨの代役・男の視線
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    切り取られるGeishaサユリの体と着物の下ショット
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    サユリが恋をすることによって、物語の後半の軸となす恋愛メロドラマの王道「三角関係」にも大きな役割を求められる二人の日本人俳優たちです。男たちもGeishaとしてのサユリに恋をすると成就できません。最終的にGeishaではないチヨに恋をした会長さん(渡辺)とチヨのハッピーエンドなのです。恋愛物語としてはGeishaは必要ないわけです。この辺はしだすと長くなるのでこの辺で。。。

    この映画を見てまず思ったのが「この映画の売り方は難しいな」ということでした。つまり、「視線・視点」という仕掛けによって、とことん西洋人向けに作られている映画で、東洋エキゾチズムも満載に描写されていますが、果たしてどこまで観客層を取り込めるのかなと考えたときに、どうしてもいわゆるハリウッド映画といえるほどの集客力があるのかは明らかに疑問です。欧米では日本映画は文化的・芸術的アートハウス系としての配給というのが筋ですから、本来そこに収まるはずの映画をハリウッド商業映画として売ると考えたときに、やはり日本での興行がメインになるのかなとも思います。実際『ラストサムライ』がそうでした。今後ここら辺も注視していきたいと思っています。

    『パールハーバー』ショット?
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    古典的絵葉書ショット
    (日本人監督がこういう画を撮ると欧米観客への媚と言われます、笑)
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    ということで、まとめですが、なかなかほしいショットが手に入らないために、断片的ですが、「視線・視点」という着眼点からこの『SAYURI』を見てみるとなかなか興味深いものがあるというのがある程度伝わるといいのですけどね。この「目・視線・見る・見られる」という仕掛けなしではこの映画『SAYURI』は成り立ちませんね。『ラストサムライ』もそうでしたが、オルグレン(トム)が覗く役目を負わされるように、欧米人が日本を題材として映画を作る時に、やはり欧米人観客の視点となる役回りがあってそこから(エキゾチックな)異国を覗くという構造は必要不可欠なんでしょうか。

    この映画を見るうえで最初にまず確認しておかなければならないことは、この映画は
    「西洋人の、西洋人による、西洋人のための映画」
    ということです。

    というところで、今回はここまで!(疲)
    That's Wrap!!
    Depper

    参照画像:
    HelloZiyi.us
    おまけ:
    http://www.youtube.com/w/Memoirs-of-a-Geisha--Mad-TV?v=_AQvqsZFgDY&eurl=
    Excite エキサイト : 芸能ニュース 『SAYURI』ロンドンプレミア
    興行状況:
    1/11までの累計
    『SAYURI』
    USにおける興収: $41,602,941 (興収全体の76.7%)
    US以外での興収: $12,638,673 (23.3%)
    今からイギリスを始め多くの国で公開が始まります。日本・アメリカとは約1ヶ月遅れですが、これが凶とでるか吉と出るか。これから1~2週間は目が離せないですね。世界中の配給予定国で公開されて興行成績が上がってきたらまた再考してみたいと思います。
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    by corin_depper | 2006-01-11 21:49 | レビューと考察
    『SAYURI』の前に『チキン・リトル』
    e0039500_1551066.jpg明けましておめでとうございます。Corinです。今年もどうぞよろしくお願いします。昨日ようやく劇場での映画鑑賞初めでした。日本語吹き替え版『チキン・リトル』と『SAYURI』を二本立てで観てきました。まずは『チキン・リトル』から今年1本目のレビューと考察、GO。

    この映画、タイトルも主役も『チキン・リトル』ですが、本当の主役は『チキン・リトルのお父さん』です。宣伝文句にもあるようにチキン・リトルは「何をやっても失敗ばっかりの小さな男の子」。ですが、ですが、ですが、彼は自分に揺るぎない自信を持っています。チャンスさえあれば…、と自分のチカラを証明する野心も備えています。

    一方、彼が唯一持ち得ないもの、それは「父親からの信頼」です。チキン・リトルは父親から「目立つな」、「大それた希望は持つな」、「野球は絶対ムリ」など、常に異常なほどの抑制を促されています。それに対して、チキン・リトルは「僕だってやれる!!」という自信を抱きながらも、父親を喜ばせるように、何より失望させないように行動しようとします。健気…。つまり、チキン・リトルが最終目標とするものは「自分の汚名を返上すること」でもなく、「ヒーローになること」でもなく、単純に「父親から信頼を得ること」なのです。

    この作品のなかで、チキン・リトルのお父さんの「父親としてのアイデンティティー」は見事にズタボロです。父子家庭であることへの負い目、家庭内コミュニケーションの欠如、我が子であるチキン・リトルへの不信…。しかし、宇宙人の侵入というインシデントを通してようやくお父さんは「父と子の会話」をすること、そして「我が子を信じること」を学びます。つまり、この作品は「チキン・リトルのお父さんが父性を再確認する物語」であり、その結果「父親からの信頼」をチキン・リトルが副次的に獲得しただけと考えられます。

    コアな映画ファンにしかわからないような(子供には絶対わからないけど、親の世代なら楽しめるくらいの)引用の数々や、宇宙戦争、ETならぬカービーとの出会い等々に隠されて見えにくいのですが、物語の核心は「チキン・リトルのお父さんが父性を再確認する物語」にあり。ちょっと『ファインディング・ニモ』と似ているところがあるかもしれません。まあ、あの映画はタイトルが『ファインディング・ニモ』であって『ニモ』ではなかったわけですが(笑)

    e0039500_1644475.jpg作品の最初に同じディズニーの映画『ライオン・キング』のオープニングが少し流れますね。「映画のオープニングっていったらこんな感じ」というリファレンスに引っ張られて「♪えんにゃぁ~~~うんばばぁ~~~♪」と登場するわけですが、「ってこれはどっかで見たことあるから」(…とか何とか台詞が入る)とすぐに『チキン・リトル』のオープニングに戻ります。

    e0039500_1652895.jpgありゃ一体何だったんだ??といきなり自分は混乱したわけです。何故数あるディズニー映画の中で『ライオン・キング』のオープニングを選んだのか…。動物の家族の物語という条件では共通する2作品。でも、頼りないチキン・リトルの父親は、揺るぎない父性を持ち合わせたシンバの父親とは正反対です。「父から学ぶシンバ」と「父を学ばせるチキン・リトル」も正反対。つまり、最初から「これは『ライオン・キング』のような映画ではない」、むしろ「『ライオン・キング』と正反対のポジションを取っているディズニー映画である」というメッセージがここには隠されていたのではないかと思います。

    以上、『チキン・リトルのお父さん』という映画のレビューでした。次は、ついに、ようやく『SAYURI』のレビュー投稿予定です。
    Corin

    公式:
    http://disney.go.com/disneypictures/chickenlittle/(英語)
    http://www.disney.co.jp/movies/chicken/(日本語)
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    by Corin_Depper | 2006-01-04 16:10 | レビューと考察
    『The Promise(無極)』
    新年明けましたね。おめでとうございます。本年もこのブログと映画学の発展を祈願してできるかぎり更新をがんばりたいとおもいますので、みなさまよろしくお願いします。

    e0039500_2029842.jpgということで、新年一発目の投稿は映画『The Promise(無極)』のレビューです。アジアンシネマの王道のような映画ですが、日本では公開は2月11日のようですね。詳しくは下のオフィシャルサイトをチェックしてみてください。すでにゴールデングローブ外国語映画賞にノミネートされて、2006年度のベルリン国際映画祭コンペにも正式出品が決定しています。
    Chen Kaige’s vibrant martial arts adventure Wu ji | The Promise, a love story of a princess between three men will be shown out of competition. The 35-million-dollar production is said to be the most expensive Chinese movie ever made.


    中国映画史上最も高い3,500万ドルの制作費というのだから、大作です。そして日本の映画俳優、真田広之氏が出演しているという点でも早くから目をつけていた作品でした。
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    まだ日本未公開ということなので多くを語るつもりはありませんが、少しばかり構造的解説をしてみたいと思います。この映画を見るときに、より楽しめそうな見どころやポイントをいくつか指摘もしたいと思います。まだ何も内容を知りたくないという人はご遠慮下さい。

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    率直な感想はこれまでの壮大スペクタクルアジアもしくは中国映画路線を着実に継承している作品だと思いましたし、同時に近年見られる複数国にまたがった物語を持ってくるトレンド(日本・中国・韓国+他アジア諸国のミックスもしくはいずれかのペアなど)も確実に取り込んでいます。それは俳優・女優のという登場人物レベルだけでなく、この作品ではナショナリティは非常に混合されていて、そして色使いをはじめ裏を返せば非常にギトギトするくらいの、「観念的テーマ」に集約させるという、いわゆるハリウッドも喜びそうな作りになっています。国籍ミックスを除けば、そのテーマ性の表象の仕方は『HERO』を想起させますね。がしかし、それよりも、より神話的、超現実的、時間や空間さえも非常に夢想的な作りです。加えて、非常に演劇的な舞台演出的な描写にも映るかもしれません。逆にそこが、ある種のファンタジーを生みだしていて、ナショナリティ関係なく物語のエッセンスを引き立たせているなぁと感じました。西洋人でも十分楽しめそうな要素ですね。

    さて、ここからもう少し掘り下げますね。
    e0039500_20545038.jpg

    女一人に対して男が四人、その五人で話が成り立っているといっても過言ではないでしょう。この記事にペタペタ貼った広告用の画像では三人なんじゃないのという感じですが、それはあくまで宣伝のためと思われます。つまり、この五人の登場人物とその人物像だけがあればすべてが成り立つお話。お金をかけただけあって、ヴィジュアル的にも相当気合の入った映像が見れますが、それはもう視覚的快楽として装飾しただけ。その五者五様の物語があり、全体としてそのつながりと関係だけで話が進みます。でね、個人的に面白いなぁと思わされたのは、「女一人だけ振り出しに戻る」んですよ。正月的にすごろくで言えば、男は全員あがるわけです、それなりの救済というか結論に至って。しかしね、女だけは振り出しにもどるわけです。そして、先ほど触れました「観念的テーマ性」ですが、五人はそれぞれの観念的テーマを表象します、というか背負っているといったほうがいいかな。今から5つ挙げますので、見るときは誰がどれか当てはめて見るのも面白いかもしれません。
    e0039500_21181798.jpg「信頼/Trust」
    「愛/Love」
    「生死/Life&Death」
    「虚偽/Deceit」
    「自我/Ego&Self」
    五人の主人公ともいえる登場人物がいるわけですが、その中でも一人だけ物語を進める「力」を持っています。それが真の主人公とも言えるわけですが、表面的には見方によって誰もが主人公として見ても成り立ってしまうような作りにもなっています。この辺が非常に興味深く、これはぜひブログに書こうと思った所以でした。
    Depper


    参照:
    『プロミス』オフィシャルサイト
    『Mo gik(無極)』 IMDB
    ベルリン国際映画祭
    Excite エキサイト : 芸能ニュース 真田&ドンゴンがプレミア登場(スポニチ)
    Excite エキサイト : 芸能ニュース 真田とドンゴン、再共演を“プロミス”(日刊スポーツ)
    Excite エキサイト : 芸能ニュース 真田広之、チャン・ドンゴンは「本当に謙虚」(夕刊フジ)
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    by corin_depper | 2006-01-01 21:22 | レビューと考察