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    カテゴリ:レビューと考察( 47 )
    『40歳の童貞男』:オタクのフィギュアとVirginity
    e0039500_3203015.jpg

    寒中お見舞い申し上げます。Corinです。今日のレビュー作品は、『40歳の童貞男』(原題『The 40 Year-old Virgin』)となっております。適切な言葉を選ぶのが面倒くさいので簡潔に内容を説明すると、40歳の童貞男が童貞を卒業するために大騒ぎする、って話ですね。まあ、なんて言うか、タイトルのまんまなんですけどね。

    この映画、いかにも学問の世界で無視されちゃいそうな作品なんですが、非常によく仕上がっています。というのも、とっても分析しやすく、わかりやすいんですね。この(いい意味での)単純さこそが、Box Officeで成功を収め、主役のSteve Carellを一躍ハリウッドで有名にした所以なんじゃないかと思います。ちなみに、この『40歳の童貞男』は2005年の全米Box Office 25位で、『SAYURI』こと『Memoirs of Geisha』は27位で負け。逆に上位を見てみると、23位は『Walk the Line』、24位は『Brokeback Mountain』。オスカー受賞作品に見事に挟まれてますね。とはいえ、『40歳の童貞男』はオスカーこそ掠りもしませんでしたが、それなりに賞レースにも食い込み、特に批評家からの人気が高い作品です。

    e0039500_3205330.jpgさてさて、つい無駄話をたらたらとしてしまいましたが、今回注目したいのは、主役のアンディと、彼の所有するフィギュア・コレクションとの関連性です。主役のアンディは、内向的で、保守的。それを示すように、彼は人数合わせでポーカーに誘われるまで、一度も会社の同僚と飲みに行ったこともなく、ゲームとフィギュアのコレクションに囲まれた自分のおウチにいるのが大好き。ウチに篭って、一人でゲームに集中し、フィギュアに話しかけ、毎日を同じリズムで繰り返す。一方、彼は一見かなり地味だけど、実はユーモアに富んでいて会話も面白く、女性からはオーウェン・ウィルソン(ルークの方かも… どっちか忘れました 汗)に似てると言われるくらいかっこいいし、しかも心優しい魅力の持ち主。ここで考えてみてください。アンディって、フィギュアそのものじゃないですか?

    アンディの集めているフィギュアは、全部「箱入り」ですよね。その理由を彼は、市場で「箱つき未開封」のほうが価値が出るから、と説明しています。そして、フィギュアのキャラクターのほとんどが脇役級。かっこいいヒーローのフィギュアは誰にでも人気があるので大量生産されるため価値が出ませんが、脇役は一部の人間にしかその魅力を認識されないが故にあまり人気がなく、手に入りにくいので、これまた価値が出るんですね。そしてそして、アンディ自身も彼のフィギュア・コレクションと同様に、家という「箱」に入って、世間に出て汚されることもなく「未使用」な状態を貫いたまま、その「魅力」をシャツinスタイルの裏に隠し持った、貴重な存在だと言えるわけです。

    e0039500_325424.jpgすったもんだして、最後にはアンディは「箱」だった家から飛び出して最愛のトリーシュと結婚、Virginを卒業し、彼のフィギュア・コレクションも世に(オークションに)出て50万ドルの値をつけました。結婚式でアンディの同僚が、「(自分の子供にも)おもちゃを買おう」と発言していますが、これ、非常に興味深いです。もちろん、表面的には「今のうちにおもちゃを買って、新品未開封のまま保存して、40年後に売って儲けよう」という意味がありますが、一方で処女崇拝的な意味合いもプンプン感じられますよね。

    以上、なんだか長くなってしまいましたが、『40歳の童貞男』という作品のなかで、アンディのフィギュアは、アンディ自身のメタファーされた姿、分身なんじゃないか、ということでした。この作品を通して今回私が考えたのは、映画において、オタクが集めるフィギュアというは、Virginityつまり(性別問わずの)処女性の象徴なんじゃないかな、ということです。別にオタクはVirginだとか言ってるわけじゃありません。実際はフィギュアを箱から出して思う存分遊ぶ方もいらっしゃるでしょうし。ただ、映画のなかで、象徴として機能しているんじゃいないか、と申しているわけであります。そういった点で、あの『電車男』をもう一回見てみたくなりました。ところで、この映画は男性が主役ですが、同じような設定で女性を主役にした映画ってありますかね?
    Corin


    公式: http://www.eiga.com/official/40DT/ (日本語)
         http://www.the40yearoldvirgin.com/ (英語)
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    by corin_depper | 2007-01-12 03:27 | レビューと考察
    『嫌われ松子の一生』と「母親」の不在
    e0039500_49284.gif皆様、あけましておめでとうございます。2ヶ月ぶりの投稿となります、Corinです。さてさて、今日は久しぶりにレビューを書きますよ。映画は、先日年末のDVD半額レンタルで借りた『嫌われ松子の一生』。いやいや、キャスティングが豪華ですね~ぇ。個人的にはもうそれだけでお腹いっぱい楽しめちゃうんですが、それは置いといて…。

    ちょっとまじめに考えてみました。というのも、観終わったあと、ひとつ気になることがありました。この話には、「母親」が出てこないんですよね。妹への嫉妬あり、父親と兄との確執あり、でも母親はストーリーに絡んでこない。時代背景的にも、演出的にも、松子の家族が厳格な家父長制なのは明らかなのですが、家族というテーマが大きく扱われる割には母親が不在なんです。
    e0039500_4103634.jpg
    では、他の登場人物を見てみると……、「嫌われ松子」は実は女性からは「愛され松子」なんですよね。松子が苦境に立っているとき、助けてくれるのはいつも女性です。例えば、愛人に捨てられてソープ嬢になろうとしたとき、拾ってくれたのがBonnie Pink演じる綾乃。刑務所時代の親友であり、仕事もせず引きこもり生活を送る松子を救おうとする沢村めぐみ。彼女たちは一見、母性を持って松子に接しているようにも見えますが、「母親」ではなく、「独立した女性」です。綾乃はソープ嬢を辞めたあと小料理屋を開くと発言していますし、沢村めぐみはAV女優兼AV制作会社の社長です。いわば2人とも、家庭に入って主婦になるわけではなく、自分の力で生計を立てていくプログレッシブな女性像を演じているわけです。そして、めぐみに名詞を渡された松子は、「まだやれる」と、自らも美容師としてやり直すことを決意しています。男にすがることもなく、よって母親になることもなく。
    e0039500_411494.jpg
    最後に、松子の教え子であり、恋人であった龍は「松子は俺の神だったんです…」と言っています。そう、彼女は「マリア様」ではないんです。こうして「母親」という女性の役割やあり方が無視されたままストーリーが完結していく『嫌われ松子の一生』。ドラマのほうは見てなかったんですが、ストーリーとか設定は全く同じなんでしょうか?どなたか、よろしければ教えて下さい。

    e0039500_4123740.jpg


    何はともあれ、2007年もフィルム・アカデミアをどうぞよろしくお願いいたします!




    Corin


    公式:http://kiraware.goo.ne.jp/
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    by corin_depper | 2007-01-01 04:20 | レビューと考察
    『武士の一分』『硫黄島からの手紙』覚書
    また子無沙汰の記事投稿となりますが、先日『武士の一分』と『硫黄島からの手紙』を立て続けに見る機会がありまして、覚え書きとして書き残しておこうと思います。

    e0039500_1425868.jpgまず、『武士の一分』でありますが、三部作の三作目という見方をしますと、ある傾向が見受けられました。時代劇という映画ジャンルで見ますと、三作目は非常に古臭い時代劇のジャンルの雛形へ寄り戻っていくフレームワークとなっておりました。そしてドラマはと言いますと、非常に『寅さん』化をしている、つまりこれも山田洋二流という意味では古臭いドラマ仕立てへと立ち戻っていく、そんな姿に見て取ることができました。どこが、どのようにというのは、挙げだすと切りがないのですが、両者に共通するところをあえて挙げますと、登場人物達のアイデンティティと言えるのではないでしょうかね。その時代そのままの価値観しか持ち合わせておらず、もしくは、映画が進むにつれそういう方向へどんどんと流れていってしまい、現代人が同等に共感できるようなところが減り続けます。それを踏まえまして、当時の価値観の中での人情・人間模様がわかり易いメロドラマ的に行われるわけです。逆に現代人我々の目が向くところはテレビのお茶の間劇場にも似た含み笑い的描写ややり取りがあるところで、これが登場人物のアイデンティティではなく、しぐさや行為に、という点でこの作品に限れば面白いところかな、という感じでした。一言で三部作の三作目としてコメントするのであれば、一作目の『たそがれ』で構築されたフレームワークの柱を4,5本抜いた骨抜き平屋建てといったところでしょうかね。その抜け落ちた部分を細かに分析してみると更に面白い発見ができそうです。

    さて、次に『硫黄島』ですが、対になる作品『星条旗』をまだ見てないので比較コメントができません。が、しかし、戦争映画としては非常に優等生的にジャンルとしての雛形を使っているな、というのが第一印象でした。ただ、色やドラマのトーンを抑えているので、詩的ですね。批評家の受けは悪くはならないであろうということはわかりましたね。『武士の一分』にかけている一人称視点での物語り形式も行われていて、これもまたオーソドックスであり、かつグローバルな観客の鑑賞に堪えられる作りになっていますね。全体として、反戦一色ではない『シンレッドライン』に近い、ヒューマニティに対する問題提起的な中立的な描写に終始しているので、イーストウッドはやはりセンシティブな感性をもった映画作家であるという太鼓判のように映りました。このあまりに優等生なしあがりが賞レースにどのような結果をもたらすものか、楽しみですね。
    e0039500_14464827.jpg

    と、いったところで、今回はこれまで。また何かあればその都度書き留めたいと思います。
    Depper

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    by corin_depper | 2006-12-26 14:48 | レビューと考察
    『UDON』を観て思ったこと。
    公開4週目にして未だ国内観客動員数ランキングの8位に食い込んでいる『UDON』、観てきました。人生で初めて、劇場を途中退場しようかどうか本気で迷った作品でした(苦笑)。というのも、この作品が「映画」である理由が見出せないのですよ。前半はフジテレビという会社と、日産と、マルちゃん等々のスポンサーの1,800円払って観させられるコマーシャル(&トータス松本の自己満足)で、後半からようやくナラティブに集中し始めて、残り1/3くらいで一気に完結させるため強引にストーリーを動かしていく…、それでは何が言いたいのかわかりません…。もちろん前半でも物語を繋げようとする努力は痛々しいくらい垣間見えるんですが、あまりに「障害物」が多くて現実世界に引き戻されてしまい、私は全然入り込めませんでした、『UDON』という世界には。確かに一つ一つのシークエンスはとても面白いですよ。細かいところまでこだわってると思います。そのこだわり方が良いか悪いか、必要か不必要かは別の議論としてですが(汗)でも最初から最後まで一つの作品としてみると、すごくストーリーが希薄なんですよね。「ソウル・フード」とか、「笑いとは何か」とか、そういったテーマや問題提起を堂々と手抜きしてテロップ使って見せておきながら、それがストーリーと結びついていかない。というよりは、明らかにその二つを結びつけるはずの「父と息子の物語」があまりに蔑ろにされているため、ストーリー全体が消化不良を起こす結果となってしまったのではないでしょうか。

    e0039500_0364581.jpg

    以下、ネタバレ注意。

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    ヴォイスオーバーで語られるところの「彼」=「この物語の主人公」である松井香助は世界中を「笑わす」という夢を持ってアメリカに飛び出します。しかし、観客に笑われることはあっても、コメディアンとして観客を笑わせることはでないまま、借金を抱えて香川の製麺所を営む実家に帰郷。そこで出会ったのが彼にとって「ソウル・フード」である、うどん=”UDON”。彼はその魅力に気付き、反発していた父親に頭を下げて、製麺所を継いで毎日うどんを打つ人生を決心するのですが、時既に遅し。父親は急性の心筋梗塞で倒れたまま帰らぬ人となり、「松井製麺所」は閉鎖の危機に立たされます。一方で、「松井製麺所」のうどんを愛していた人々から復活を望む声が高まり、それに突き動かされた香助は「父親のうどん」を再現すべく奮闘していくのですが、ここで彼は大事なことを学ぶのです。それは、自ら笑うこともせず、他人を笑わせることもできないと思っていた父親が、毎日の妥協ないうどん作りを通して、それを食する人々の笑顔を毎日作り出していたこと。そしてそれは、「人を笑わせる」という行為そのものであり、香助にとっての夢と同じ。やがて、彼は「父親のうどん」を(ほぼ忠実に)再現することに成功し、それを食べる子供たちの笑顔に触れます。つまり彼は、コメディアンとして達成できなかった「人を笑わせる」という夢を、父親という存在に学びながら、うどん職人として実現させることに成功したのです……

    で終わるとスッキリすると思うんですが、香助は「父親のうどん」を(ほぼ)再現した直後、うどんを打つことを辞め、再びアメリカへ……… そして3年後、彼はアメリカで大成功して『キャプテンUDON』という映画か何かの主役を務めている、というエンディング。えっと、それなんて自己実現??コマーシャルを見る限りスパイダーマンとかバットマンみたいなヒーロー系のもので、コメディーではないようだし、「笑い」はいったい何処へ……。あまりにも最後伸ばすんで、私はてっきり、「うどん職人としてアメリカで開業して、おいしいうどん食わせてアメリカ人を笑顔にしちゃるぜ!!コメディアン時代にバカにした奴らへのお返しだ!!うどんで世界を笑わしたる!!」みたいなオチかと勝手に思っていたのですが、どうやらものすごい勘違いだったようです(苦笑)

    一方、小西真奈美演じる「彼女」の立場で物語を読むと、すごくスムーズで、わかりやすく完結しているんですよね。「彼女」の視点から見る『UDON』は余力があれば後日にでも…。それにしても、どうして今時そこまで徹底して「世界=アメリカ」なのでしょう……

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    Corin

    公式:http://www.udon.vc/movie/
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    by corin_depper | 2006-09-26 00:40 | レビューと考察
    『男たちの大和』レビュー
    e0039500_19384042.jpg個人的な予想を反して結構な興業となったこの映画ですが、先日DVDで鑑賞して意外と面白い構造をしていたのでまとめてレビューします。

    戦闘シーンにCGなどやロケで相当豪勢に大枚がつぎ込まれたことは容易に見て取れ、それなりに感心しましたが、注目したのは主に戦時中の回想部分ではなく、時勢で言うと現在の部分のシーンでした。結論から言いますと、この映画はある意味で「男たちのらしさへの回帰とバックラッシュ」なのではないかと考えさせられたわけです。「男たち」の部分をそのまま「ナショナリズム」と代えて見る事もできると思いますが、これはもうアーロン・ジェロー氏の後追いなのでやめておきます。

    戦時中の大和とその乗組員をめぐる回想のお話しがナラティブの軸でありまたドラマツルギーの主要な部分であることははっきり見て取れますが、全体としてのナラティブの構造はその回想はある一人の男(仲代達矢)の実体験の記憶を通して回帰されたものでして、その回帰を促すのは父の過去に触れて向き合うために来た女性(鈴木京香)なわけですね。そして物語りの最終的な帰結はその男が救済をされるという形で終わるわけです。戦争へ行った世代がその子供の世代の、ここが注目すべきところですが、女性によって救済がなされるわけですよ。

    e0039500_20163675.jpgそして更に面白いところは、戦争へ行った男と戦争へ行った父を持つ娘、それに大いに触発されるのが戦争へ行った世代の孫の世代にあたる15歳の少年なわけです。一つの小さな船に乗って大和に会いに行く、この三者の構成が、3世代によって構成されているわけですね。例えば、最後に少年が船の舵を握りますよね。それはあたかも大海原に浮かぶ島、日本の舵をにぎったように見えたのは私だけでしょうかね。戦争に行った世代は次の世代の女性に救済され、それをまた次の世代の少年に受け継がれていく。ジェンダーで追えば、男→女→男なわけです。戦争に行った世代の男のイデオロギー(主に男らしさ)を2世代後の男へと継承される。そしてその媒介となるのが間の世代の女性。この辺が、この映画をジェンダーという視点で追ったときに非常に興味深いなぁと思わされた所以でした。

    言ってしまえば、この映画のお話は戦時中の回想シーン無しでも成り立つ、そういう構造になっているわけでして、海の上のこの三世代にわたる三者の物語なわけですよね。しかし、映画的なスペクタクルを回想シーンが請け負う、意外に秀逸な構造となっているわけでした。もちろん3世代を出すことによって、各世代の観客層の感情移入ポイントを作るという上でも非常に優等生的なやり方ではありますが、更にジェンダーで見たときに更に興味深いやり方をしているなぁ、なるほど、それなりの興業を上げるわけだとある種納得をした鑑賞となりました。

    さて、この映画を「戦争映画」として括って見るとまた全く違ったレビューとなってしまうわけですが、それは長くなるので割愛ということにしまして、最後にレーティングのことについてすこし。

    見たところ、この『男たちの大和』に映倫はレーティングを行っていないようですが、そうなんでしょうか?もしレーティングをかけていないのであれば、すこし考えさせられてしまいますね~。というか、日本のレーティングらしいといいますか。まず、映像的なバイオレンス度で言えば相当高い部類に入ると思いますし、その描写は見ていて『プライベートライアン』を想起させられたわけなんですけど、見てみると日本で『プライベート』はレーティングないようですね。あー、なるほど、と思うと同時に、『バトル・ロワイアル』がR15にレーティングされた記憶も蘇ってきまして、その映画の暴力的描写と『男たち』のそれとそんなに違うものかと言うことも考えさせられました。これ以上は日本の映倫とレーティング議論になってしまうので、気が付いた点としてここまで。
    Depper


    参照:
    「Fantasies of War and Nation in Recent Japanese Cinema」by Aaron Gerow
    『男たちの大和』公式HP
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    by corin_depper | 2006-09-07 20:33 | レビューと考察
    『ゲド戦記』―下請けスタジオにみるジブリの行先
    先週Depperがいろいろな視点から細かく分析をしてくれましたが、引き続きワタクシCorinが映画の外側から『ゲド戦記』の位置を確認したいと思います。

    e0039500_2337924.jpg率直に『ゲド戦記』を見た感想を言うと、凄く深夜アニメっぽいと。言い換えれば、ジブリがこだわってきた「アニメーション -Animation-」ではなく、「アニメ -ANIME-」っぽいなぁと思ったんです。それはきっと、Depperの説明にあるような『ゲド戦記』のなかの「個人が抱える死との対面」とか、「死に対する恐怖やそこからくる葛藤や苦悩」というテーマが、深夜アニメ(もしくは青年~大人にターゲットオーディエンスを絞ったアニメ)のそれとダブって見えたからだと思うんです。んで、最後エンドロール見ながら一つ気が付いたことがあるので、それについて今日は書きます。

    気が付いたことっていうのは、制作の下請けプロダクション・スタジオについてなんですが、そこに気になる2つのスタジオ名があったんですよ。その一つ目が「ゴンゾ」。この会社は現在公開中の『ブレイブ・ストーリー』でその名を日本中に知らしめた会社です。もう一つが「ガイナックス」。この会社は脱税でも有名ですが、『ふしぎの海のナディア』を経て、『エヴァンゲリオン』で飛躍的に伸びた会社です。この2つのアニメ制作スタジオが、ジブリと一緒に仕事をしていることが、私には非常に違和感だったんです。だって、確か宮崎駿はベルリン映画祭で金熊賞を獲ったときか何かの機会に、「他の日本の“アニメ”とは一緒にしないでくれ」という旨の発言をしていて、スタジオジブリがそれらのスタジオと手を組むとは想像すらしていなかったから…。

    e0039500_23464970.jpgところが、調べてみたらびっくり。「ガイナックス」は金熊を獲った『千と千尋の神隠し』の下請けに名を連ねているし、「ゴンゾ」は『ハウルの動く城』でデジタルアニメーションを担当していました。そして今回の『ゲド戦記』では、その両方が制作に参加。新しい、しかも上記のような大手スタジオが制作に加わるとなれば、一方で古くからジブリの下請けをやっているスタジオの参加は少なくなってきているはずです。そうすれば当然、見慣れたジブリの画とは違うものが出てきてもおかしくはない。そしてその「違和感」もしくは「非統一感」がこの『ゲド戦記』では表面化してしまった可能性があると言えます。


    宮崎駿の目指したジブリ作品が純血であるとすれば、吾郎氏の作った『ゲド戦記』は非常に混血的なものと捉えられるでしょう。もちろんそれがいいか悪いかはわかりません。ついでに初めて知ったことがあるのですが(とっくに知ってるよって方はごめんなさい…)、スタジオジブリは劇場版攻殻機動隊『イノセンス』(押井守監督/2004年)にCo-Productionという形で堂々とその名を表に掲げています。この事実から言える事は、スタジオジブリという会社自体も混血化の道を好んで辿っているということでしょう。どうなるのかなぁ、ジブリ作品とスタジオジブリの未来。どこへ向かって行くのでしょうかねぇ。
    e0039500_23495933.jpg
    Corin

    公式:
    スタジオジブリ 『ゲド戦記』

    参照:
    http://kozoism.exblog.jp/4020727/
    Gonzo (ゴンゾ)
    Gainax (ガイナックス)
    Production. I.G
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    by corin_depper | 2006-08-27 23:50 | レビューと考察
    『ゲド戦記』考察
    e0039500_2151415.jpgようやく何かと騒がれているジブリ最新作『ゲド戦記』劇場鑑賞してまいりましたので、ここで少し考察をしてみたいと思います。結果として、不評をかってしまっているメカニズムが曲がりなりにも検証されていればいいかなと。きっと長い記事になってしまうと思いますが、気長に読んでもらえると幸いです。

    まずは印象・感想から。
    久しぶりに劇場にメモ帳・ペンを持って映画鑑賞をしましたが、「何してるの、この人?」という痛い視線にもめげずにポイント、ポイントは押さえて参りました。観終わってまず、抱いた感想は、「宮崎駿氏が立腹するのに合点」ということですかね。決してマイナスな思考で観たわけではないんですが、少し寂しい出来ではありましたかね。それもこれもやはりジブリ作品という強烈なブランドイメージとの差異がそうさせるのでしょうね。

    そして、次にこの作品『ゲド戦記』に対する問題提起をしたいと思います。最終的にここに帰ってくると思うのですよ、どういう分析をしようとね。そしてこの問題提起は今後のジブリブランドと今回初監督をした吾朗氏への問いかけにもなると思います。

    それは、
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」ということです。この位置づけの仕方によって、最終的な評価が大きく変わってきてしまうように思いますね。ただ、今回この考察記事でその答えを前提にすることはしません、むしろ問題提起のままという姿勢で行きたいと思います、なるべく中立的な立場でしたほうがこの記事を読んでくれるみなさんに核心に触れてもらいやすいかな、とも思いますのでね。

    さて、最初にまず前回鑑賞前に疑問点を「寸感」として書いた記事に対するすり合わせからしてみようと思います。興味のある方はそちらから読んでみてくださいまし。(前回記事:『ゲド戦記』寸感

    疑問点①
    「ジブリアニメ作品=宮崎駿作品という強烈なイメージとの誤差」

    これは最初に述べたように、作品全体のイメージとしてこれまでのジブリ作品の持つ世界観や表現手法、それを体現する重要な要素等を見てみると、「誤差は小さくない」と言わざるを得ないでしょうね。問題提起の部分にも関わってきますが、世界観、表現、ジブリ作品要素もしくはブランド要素いずれをとっても、逸脱しております。では、どこが、どう、という詳細部分は以下で述べたいと思います。

    疑問点②
    「主人公と配役」

    ここにも重要な逸脱がありました。これは作品の物語の部分と大きく関わってくるので、詳細分析は以下で行いますが、配役の構造は180度異なると言えますね。

    疑問点③
    「シュールかつ内省的な精神世界感とナラティブ構造」

    この疑問点に細かく応えることが、きっと考察のメインになるのですが、決してシュールでもありませんでしたし、内政的な精神世界表現が強調されているというわけでもありませんでした。ただ、ナラティブの構造、ここを紐解いていくと、疑問点①へ帰るということになりますかね。この疑問点に関しては個人的予想とは少し誤差が大きかったように思います。

    前置きが長くなってしまいましたが、映画の中身、概して物語・ナラティブ構造を中心に細かく考察してみたいと思います。


    Intermission
    e0039500_17392530.jpg


    まず、これは映画の外、特に製作部分に関わってくる話ですが、アニメーション自体について少し。アニメーションの質というべきか、手法というべきか、表現方法というべきか、わかりませんが、とかく統一性がありませんでした。ある画はとても細かく、そしてある画は「ナウシカ」時代を思わすような平面的なで簡素な画。おなじ人物や背景をとってもシーンによって違うのですね。たとえば、水関連の画。オープニングは非常に原始的で平面的な簡素なセルアニメーションの画。そして同じ海のシーンでも今度は明らかにCGを駆使した透明感あるきめ細かな3Dの画。もう一つ顕著なのは、背景もそうですね。基本的に、背景に関しては細かく描写された画が多かったように思います。しかし、これにもばらつきが観られましたね。キャラクターはともかく、背景などは視覚的な世界観を作るうえで重要となってきますから、ここの表現が統一されていないと、観る側はなかなか世界観を捉えるのに苦労しますし、無意識であっても情報は受けるわけですから、なかなか集中して自己を作品世界へ移入させてもらえないのではないでしょうか。そうすると、なかなか主観的に鑑賞させてもらえない、そしてより客観的に距離を置いて見ざるを得ない。客観的に観ると言うことは、えてして批評的な立場で見る傾向に至ってしまうのではないでしょうかね。これまでジブリ作品にどっぷりと浸かって見てきた観客にとっては突き放されるイメージや感覚があったのではないでしょうか。更にはすでに不評が飛びかってしまっている現段階でそれを予備知識に見る人たちはなお更ではないでしょうか。この画とその表現に統一性があったならば印象や作品イメージは大きく変わってくるのかもしれないな、と観出して数十分で思う、という体験でしたね。

    次に作品の時間的流れと空間について。Time and Spaceと呼ばれるやつですね。これも作品の物語世界観を捉えるためには重要になってくると思いますが、この時間と空間を把握するのが非常に難しい。時間の流れ自体は前後していないことはわかりますが、イベントからイベントまでどれくらいの時間が経っているのか、どう飛んでいるのか、など。空間も、点でしかなく、どれくらいの距離があるのか、同じ空間でも方角の感覚を非常に掴みにくい。これはエスタブリッシングショット、つまり空間を把握させてくれるショットに方向・方角性の統一がかけているために起こるのですがね。つまり、時間や空間を把握するための、記号もしくは情報が著しく欠如しているわけです。そこをある意味シュールと呼んでしまうとそれまでですがね、こうした時間や空間の連続性の欠如はやはり観るものの視点と感覚を遠ざけてしまうように思います。

    お次は、少し物語り・ナラティブ構造についてですが、まずは主人公にまつわる考察から。この作品の主人公は誰でしょう?誰がいるから物語が動くのでしょう?これに瞬間的に答えられる人がいるでしょうか?では、質問を変えて、これまでのジブリ作品で主人公を瞬間的に答えられない作品がありますか?この作品ではどう観てもこの人物が主人公という配役がなされていない。つまり、誰の物語であるのかが非常に分かりにくいわけです。強いて言うならば、3人居るといっても過言ではないでしょうね。もしくは3つの物語が重層的に絡んでいるとも言えるかもしれません。物語をぐいぐいと進めて行く、推進力になっている人物が居ないのですね。ジブリ作品の多くは『ラピュタ』然り、『もののけ』然り、『千と千尋』もまた然り、女の子が主人公でそれをペアになる男の子が存在するわけです。もしくはその逆というのもありますかね、『紅の豚』などはそれです。「ペア」、これが基本です。そのどちらかが物語りをぐいぐい進めて、ペアのもう一人はそれを助ける。時には進める手助けをする、時にはその一人が居ないと進まない。ペアのつながりが非常に強いからです。二人の主人公と言ってもいいのですが、少なくとも物語の視点はどちらかに依存するはずです。ところが、この『ゲド』では、この辺が判然としない。最初は男の子が物語を進めのかと思いきや、突然物語の推進力はこれまでのジブリ作品であったらサポート役のはずのおじさまに取って代わる。そして最後の最後にすべての物語の推進力は実は女の子であったりするわけです。これは、終わってみてあーなるほど、とはなりますが、観ている最中での感覚は、え?、の連続なはずです。ここにも過去のジブリ作品(主に駿氏の作品ですがね)とは一線を画すわけです。決して多重視点と主人公が悪いわけではありません、がしかし、これまでのジブリ作品というイメージと経験が邪魔になるのですね。3者の物語があるために、各々の物語のための因果関係が存在しますし、物語視点の切り替えがうまく行えない場合は、この因果関係の把握が難しくなります。今、誰の物語を語られているのか、どこで自分を作品内に投影させて感情を移入していけばいいのか、人物の物語に対する役割が変わるので難しいかもしれませんね。時には、主人公のように物語を進め、そして時にはサポート役になり、そして時には誰かの物語には誰かの存在は非常に希薄になってしまう、さぁ、これが作り手の意図によるものなのか、はたまた・・・。

    では、少し視点を変えて、上記の項も踏まえましてどういうところが、これまでのジブリ作品を受け継いでいるのでしょうか、そこに触れてみたいと思います。主人公の問題を抜くと、配役はかなり似ていますね。仮に、男の子と最終的にわかりますが女の子が主人公であったとしましょう。そのときにおじさまは主人公を賢く時には厳しく優しく導いてくれる仮初の父親的な像としてガイド役です。そしておばさまは主人公を時には温かく、時には力強く包んでくれる仮初の母親的な像としてバックアップ+癒しの役目です。後者はそう機能していますが、前者は主人公足りえてしまうために、必ずしもガイドに徹した役ではありませんね。言ってしまえば、売れる映画として不可欠な(擬似)家族もしくは(家族構成の一員が欠如した、たとえば母の居ない等の)家族とその冒険という柱は構築されるのです。

    さて、では、これを踏まえまして、少しジェンダーロール、つまり男性・女性の役割を考えて見ます。大抵のジブリ作品は(主人公である)女性が力強く、もう一人の主人公とも言える男性の後押しを受けて物語をぐいぐい引っ張って、最終的には断固たる決意の元に物語のカタルシスとも言える決断と行動をし、最終解決へ至る。これが、『ゲド』では必ずしもそうではない、むしろ逆転している、言い換えれば、古典的な男女の役割となっています。つまり、男は力強く、女はか弱く。これは物理的なものではく、精神的なところまで。特におじさま、おばさまの関係はそうですね。おばさまはすごく従属的。男の子と女の子もある意味そうです。男の子は男性の象徴的な剣を持ち、これに依存します。そして女の子はその男の子の救済となるわけです。大抵のジブリ作品は逆です。女の子がすごく動的・主体的・行動力(攻撃性)が高い。そして男の子は最後の後押し、救済となるべくその媒体・サポート役に回り物語が収束するわけだったりしますが、この辺は『紅の豚』に似ているかもしれませんね。はてさて、『紅』はジブリ作品でも売れた方でしたでしょう~か。

    e0039500_21482331.jpg


    それでは、また少し視点を変えまして、ジブリ作品が持つファンタジー性について。『ゲド』では、魔法という概念が出てきます。そして神話的な生き物『竜』なる生物も登場します。この両者を鑑賞前に聞いたとき、非常に(ジブリ作品として安心できそうな)ファンタジー世界を思い浮かべませんか?そして、それに準じたファンタジーの世界は構築されていたでしょうか。言い方を変えると、『ゲド』の中で不思議な現象ありましたか?非現実ということではなく、(畏怖にも似た)未知なる不思議な世界という意味で。この辺は作品が持つ物語のテーマ的な部分と非常に連鎖しているのですがね。不思議な物・出来事の肝がなかったように思われます。主人公がはっきりしない分、このファンタジーな世界もぼやけてしまったように思います。魔法の世界も、竜の世界も、生と死という混沌とした精神世界も、どれも物語の主役になりきれていないのではないでしょうか。これまで得てして魔法や不思議な現象は物語のカタルシスとして発生していますが、『ゲド』ではどこにカタルシスを求めてよいかがぼやけてしまっていますよね。それもこれも主人公の不透明さと物語の分裂によって起こるわけですが。魔法は、竜は、物語の最終解決となったのでしょうか?男の子の最終解決は?女の子は?おじさまは?世界は?

    それでは、もう少しテーマ性に的を絞ってみましょうか。ここは多少俗に言うネタばれになるかもしれませんが、あしからず。オープニングから暗いメッセージにも似た暴力的な描写から始まります。結果は判然としませんが、「暗い行為」から始まるジブリ作品がこれまでありましたかね。これまで凶暴性が全くなかったわけではないですが、『もののけ』のようにね、しかし暴力には理由がありました、そしてそれを観客は受容できるような形になっていました。それまでほとんど当て擦りもなく、ヒントも与えられず、突如として「個人が抱える死との対面」というテーマが浮上します、それも非常に直接的に、言葉によって。つまりセリフによって説明されて始めて、ああそうなのか、と合点が行くような形。あたかも我々に説明しているかのように。時間や空間が断絶してしまっているように、テーマも階段を上がるごとく構築されて浮き上がるといった形ではなく、断片的にかつ説明的に扉を開けて見せられるといった形で突きつけられます。テーマ性やメッセージ性を観客に唐突に投げるという行為はほとんどされて来ませんでしたよね。言い換えれば、そのテーマやメッセージに正面きって受け取らなくても作品の物語を楽しめるそういう因果関係や発展があったのですが、『ゲド』では、ある一つのテーマを完全に受容し消化をしようとしないと物語が帰結しない。これまではそのテーマやメッセージにある程度の解決が用意はされていましたが、それはそのまま主人公の問題と最終解決というところに結びつく必要がなかったのが、今回は主人公たちの物語の帰結や解決というよりも、メッセージやテーマに非常に直接的で分かりやすい白黒のついた解決を与えて物語の終わりという形をとっています。この辺にも、意識してもしなくても、違和感となって残るように思います。物語が波錠している、と言っているわけではないですよ、これまでのジブリ作品と比べたときに浮き上がる違いです。

    そして、それを踏まえてもう一つ。「死」に対する恐怖やそこからくる葛藤や苦悩、こういうものってどこまで若者に伝わるでしょうか。そういう恐怖や葛藤、苦悩といったものは、自分の肉体が老いていく歳になって初めて体感できるものではないかと思います。物語の最終解決として提示されるのが死に対するものであって、これを消化できなければ、またできない観客は完全に置いていかれてしまう様に思います。それ以前に提示されている「世の中?万物?の秩序の乱れ」ともつながりが薄いために、死もしくは死という観念に対する答えの提示が軽くなってしまい充分な落としどころになりきれていない感も否めません。よーく考えてみると、これまでのジブリ作品では子供でもわかる物語構造と大人がわかってくれればいい付加的なメッセージ性との二重構造が売りであったように思います。これが、『ゲド』では後者のみに特化されてしまった感が否めませんね。果たしてどこまで子供が追って楽しめる物語となっていますかどうか、これは子供に実際に聞いてみないとわからないのかもしれませんが。

    さて、そろそろまとめにかかろうかと思います。ここまで書いてみて、あらためて諸説紛々の根幹となっているのは、主人公の不透明さに尽きるのではないかということですかね。ここが定まらないので、物語の軸もずれる、焦点もぶれる、テーマもつながりきらない、こうしたこれまでのジブリ作品ではなかった内容となっていることに気がつかされました。これを踏まえた上で、あらためて『ゲド戦記』をジブリ作品の一つとして考えたとき、多くの要素や表現が異なることに気がつかざるを得ません。これまである程度一貫されてきたものが、突如そのラインからそれてしまった、逸脱していると言っても過言ではないでしょうね。これを故意に行ったのか、はたまた作り手の違いによる産物か、ここを見極めてみたいように思います。少なくとも、駿監督の専売特許的なものがこの作品からは消えています。意図的であるならば、登場人物のキャラクターやその描写はその限りではないのがまた不思議。あきらかにジブリ作品が描くキャラクター像がそのままそこにあるわけです。アニメーションに関しては映画の外、つまり請け負ったアニメーションスタジオ等の兼ね合いもあるのでしょうが、その辺はまた。

    e0039500_21485239.jpg最後に最初の出発点に戻ってこの考察のまとめとしようと思います。
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」
    これですが、もう言わんとすることはお判りかもしれませんね。この作品を劇場で見ていて、これまで延々と↑に書いたようなことに思いを巡らせていたのですが、明らかにこれまでのジブリ作品から逸脱した内容と表現になっているこの作品、これまでのジブリ作品とは違ったもう一つの対極的な路線を打ち出したものなのか、それともただ脱線したものに過ぎないのか。前者であれば、非常に興味深く見守りたいわけですが、後者であれば初監督吾朗氏の行く末が案じられます。良くも悪くも、この作品はジブリというラベルが貼られてしまっているわけで、爆弾を抱えて走っている興業となっていますが、この疑問の答えとなるものが次の作品以降見えてくるものと思われます。そうした意味では、楽しみではありますけどね。


    Depper

    参照:
    http://kozoism.exblog.jp/3919793/
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    by corin_depper | 2006-08-20 21:51 | レビューと考察
    『トリック劇場版2』と「型」
    e0039500_0305839.jpg先週末にふらっと見てきて、一週間経った今頃ちゃっかりレビューなんぞ書いちゃおうかと思っている超天才会社員のCorinです。と、トリックっぽく書き始めてみました。エへヘヘへ!!

    えーとですね、幸か不幸かギリギリ『スチュワーデス物語』の手袋ネタがわかるくらいの年齢なものでして、あまりギャグが通じていないところもあるかと思われます。その分、なんとなく気になったのがエンディング、というか事件解決後のシーンでした。ということで、今日はその点について少しつらつら書くことにします。

    本題の前にちょっと前置き。ドラマでも特番でも映画でも、基本的に『トリック』のストーリーの流れには決まった「型」があります。簡単に説明すると、まず山田が仕事をクビになり家賃を払えなくなる。そして、上田がカネで山田を釣り、自分の解決できない超常現象(これは毎度変わる)の謎解きをさせる。謎解きの過程を通じて2人は男女としての関係を発展させつつ、トリックを見破る。といった感じです。

    ちなみに、この「型」があるため、毎回ストーリーの最後に山田と上田が(恋愛という観点で)親密な関係になっていても、次のストーリーの冒頭ではこの関係は全く振り出しに戻っています。この『トリック劇場版2』も例外ではありません。つまり、山田と上田の関係において、『トリック劇場版(1)』の最後のシーンと、『トリック劇場版2』の冒頭シーンが繋がってはいないのはこういうわけです。

    e0039500_0292249.jpg

    んで本題に入ります。2人が事件を解決すると、偽の霊能力者は逮捕されるか、あるいは死に至りますよね。そして、その信者たちは信仰の対象を失い、路頭に迷う。ここで投げかけられる問いとは、「トリックを見破ることは、正義か、それとも正義面した自己満足か」ということなんです。

    『トリック劇場版2』でも、2人が事件を解決したあと、筐神佐和子が自殺します。そして彼女の片腕だった佐伯周平(か誰か…)が「信奉者はこの先どうやって生きていけばいい?」というような台詞を2人に投げかけているんです。あのですね、これを聞いた瞬間、「えっ、“おっかぁ~さ~ま~~”(ドラマの第一シーズン第一話)のときからまだ答え出てないのかよっ??」と突っ込みたくなってしまったんですよねぇ、私(笑)。あの…、この「型」は毎回、というか『トリック』シリーズの最後の最後まで投げかけられる必要があったんですかね?どうも“投げかけ逃げ”されてるような気がしてスッキリしない…(苦笑)

    何にせよ、結論からいうと、『トリック劇場版2』は『トリック』の「型」を最後まで、異常なまでに(まさに執念?)忠実に守った作品だった、と言えるでしょう。ちなみに、まだ見ていない方、卵が割れて出てくるのは黄色いヒヨコですよ。
    Corin

    公式:http://www.trick2.jp/index.html
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    by corin_depper | 2006-07-22 00:58 | レビューと考察
    『グリズリーマン』(2005年)とドキュメンタリー
    e0039500_04096.jpg商業映画として成り立ってしまった『皇帝ペンギン』と相成らんで昨年2005年度のドキュメンタリー風映画の数少ない優秀な作品ですね。アカデミー賞ではノミネートさえされませんでしたが、各地の映画祭で数々の賞を受賞もしていますね。・・・とまぁ、前置きはさておいて、久々に簡単ですが思いつくままにレビューをしてみようかと思います。

    ドキュメンタリー風としましたが、そもそもこの作品がどこまで、果たして、ドキュメンタリーとしてカテゴライズ出来るかどうかというのがそもそもの焦点となってしまうでしょうね、この作品。もしかしたら、アカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされなかった理由はそこにあるのかもしれません。個人的にはドキュメンタリーは決して商業映画内の概念として確立されてきた「ジャンル」という枠組みには与さないものであると考えています。つまりどこまでがこの映画がドキュメンタリーと呼べるであろうかを追求することが映画を解体分析する第一歩のような気がしますね。とはいえ、それ自体相当手間隙かかる論題になってしまいますが。。。

    と、シリアスな議論はさておき、この映画が非常に突出している部分として、構成自体がドキュメンタリーということに関して疑問を投げかけているということです。つむぎ合わされたティモシーの映像群は果たして誰のための映像であったのでしょうか。グリズリーの生態を追ったものなのでしょうか、ティモシーがいかにクマを愛し、触れ合ってきたかをキャプチャーしたものなのでしょうか。ティモシーの映像と近親者のインタビューで構成される映画自体が何かの「真実」を提示しているのでしょうか。そこには、確かな「真実」があるのでしょうか。それ自体に疑問符をなげかける構造になっていたことに新鮮な印象を受けました。

    ティモシーが最終的に保護し、愛しているというグリズリーに襲われて死を迎えたという衝撃的事実が我々の念頭におかれます。そして映画自体もその事実から出発します。そのこと自体が非常に力強いドライブフォースになっているのも、多くの観客を引きつけたのだと合点します。

    映像に話を戻すと、ティモシーは一つの場面の撮影に数多くのテイクを撮っていることがわかります。そこには必ず彼自身が居て、彼がその時点その場所での思いのたけをわめき散らしたり、淡々と解説してみたり、と多くのテイクを撮っています。更には、実際には一人ではないのですが、他の人がカメラに入らないように念を押している場面の映像も組み込まれています。そこで、話はまた戻りますが、果たしてティモシーは何のためにそのような映像を撮り続けたのでしょうか。この辺りは、昨今のドキュメンタリーにおける諸問題を改めて突きつけているように見えました。

    e0039500_0505344.jpgすこし漠然とした話をしますと、タイトルにもなっているように、グリズリーマンと呼ばれるティモシーの「Slice of Life」、つまりグリズリーの生息地ですごした彼自身の生活の一片一片を日記のように繋ぎ合わせたように見受けられます。ゆえにタイトルは「グリズリー」ではなく「クマ男」なわけです。誰の物語かといえば、グリズリーやその生態、彼らの生活の断片ではなく、ティモシーの物語なわけです。そしてその彼の物語の最終解決、つまりフィナーレは彼自身の死であるわけです。この物語性と判然としない「リアリティ」、「アクチュアリティ」と言うべきかもしれませんが、その両者の存在が強いために、純粋な意味でドキュメンタリーとは中々呼べない作品だなと思うわけです。

    仮にその物語を読んだとき、一つの筋が見えますね。彼は人間という文明社会から来た部外者としてヒグマの生息地に降り立ち、そこで人間社会の権化たる彼の中に住み着いた心の膿をさらけ出し、13年の夏を経て、そこにあるグリズリー社会の自然へと回帰していく様でしょう。そして最終的に彼はグリズリーにとって「エサ」となり、弱肉強食の食物連鎖の一部としてその地の土と還ったのです。さて、これは悲劇でしょうか、それともそこに映るものは「劇」ではなく、「ひとつの事実」でしかないのでしょうか。それが問題です。

    商業映画の中でこの作品と捉えたとき、この作品はドキュメンタリーというジャンルとカテゴライズされるかもしれません。ドキュメンタリー風の映画として一つのジャンルと見ることは可能でしょうし、この作品を通して、映画というもの自体が持つ二文法、「リアリズムとフォーマリズム」という根本的で判然としない問題へ再度考えさせられるのでした。そういう意味では優秀な作品と私は位置づけたいと思います。
    Depper

    参照:
    http://www.grizzlymanmovie.com/grizzly.html(HP)
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    by corin_depper | 2006-07-06 00:58 | レビューと考察
    『オーメン』 ―― 6つの躊躇+6つの犠牲=???
    すんごいお久しぶりのコリンです。先日、ほぼ3ヶ月ぶりにようやく劇場に足を運ぶことができ、公開終了間近の『オーメン』を鑑賞してきたので、そのレビューをば。
    e0039500_18534137.jpg

    さてさて、『オーメン』ですが、こんなの→とか、e0039500_1974192.jpg
    e0039500_198657.jpgあんなの←まで出てきてびっくり。結構楽しませてもらいました、ええ。

    ただ、気になった点が一つ。ちょっとまじめに分析させてもらうと、物語上、観客が主人公ロバートに感情移入できない/もしくは非常にしにくい作りになっているんですね。そのため、この映画を観て、音や光の演出によって「ビクッ!!」とさせられた人は多いとは思いますが、内容から何か心理的恐怖を感じることはあまりないのではないかと思うんです。だからといって、『オーメン』がホラー映画ではないというわけではなく、ある観点から見ると間違いなく『オーメン』はホラー映画なわけですが…。(詳しくは映画学メモさんの更新に期待しましょう。こちらを読むだけでもとってもわかりやすいので、是非ご覧下さいね。)

    と、ちょっと横道にそれましたが、ではなぜ、観客は主人公ロバートに感情移入できない/もしくは非常にしにくいのか。それが、このレビューのタイトルである「6つの躊躇」「6つの犠牲」だと私は考えます。『オーメン』という映画で主人公ロバートに与えられた命題は「ダミアンを始末すること」です。しかし、ロバートは息子として育てたダミアンに愛情を感じ、彼を「悪魔」であると信じることができず、それゆえに彼を殺すという決断ができない。躊躇しているうちに身近な者が犠牲となって死ぬ。そしてロバートはダミアンが「悪魔」であると疑い・・・・・・でも彼は息子として育てたダミアンに愛情を感じ・・・・・・とこの筋書き(下線部)が以下6回ループします。簡単にリストアップすると、


    その①:ブレナン神父
    その②:妻のキャサリンのお腹にいる胎児
    その③:ダミアンとすりかえられて殺された自分の息子(亡骸を墓で発見)
    その④:妻キャサリン
    その⑤:ジャーナリストのキース・ジェニングス
    その⑥:ロバート本人

    まあ、作者もしくは映画製作者が「6」という数字にこだわって、故意にこの筋書きを6回繰り返したのだとすれば、ある意味感心しますが(笑)、観ている側はこの流れに違和感を覚えるはずです。「いい加減気付けよ!!」「まだ悩むのかよ!?」と。だって観客はダミアンを「悪魔」だと知っていて、主人公と「悪魔」退治をしたいんです。なのに、主人公は退治するどころか最後のもう一息のところで再度躊躇して、結局自分が殺されてしまうんですから、観客としては「???」なわけですよね。結果、遅かれ早かれ、「こりゃ、つきあってらんないよ…」と、主人公ロバートと観客の間には“心理的な距離”が生まれてしまうのだと考えられるわけです。

    ということで、『オーメン』は作品上、「物語の展開が乏しい作品」ということになってしまうのでしょうかねぇ。以上、2ヶ月ぶりにCorinがお送りしました(汗)
    Corin

    公式:
    http://www.theomenmovie.com/ (worldwide)
    http://movies.foxjapan.com/omen/ (日本語)

    参照:
    http://www.imdb.com/title/tt0466909/ (IMDb)
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    by corin_depper | 2006-07-01 19:12 | レビューと考察