• 映画を少しばかり外から眺めてみるそのカタチ
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    『ゲド戦記』考察
    e0039500_2151415.jpgようやく何かと騒がれているジブリ最新作『ゲド戦記』劇場鑑賞してまいりましたので、ここで少し考察をしてみたいと思います。結果として、不評をかってしまっているメカニズムが曲がりなりにも検証されていればいいかなと。きっと長い記事になってしまうと思いますが、気長に読んでもらえると幸いです。

    まずは印象・感想から。
    久しぶりに劇場にメモ帳・ペンを持って映画鑑賞をしましたが、「何してるの、この人?」という痛い視線にもめげずにポイント、ポイントは押さえて参りました。観終わってまず、抱いた感想は、「宮崎駿氏が立腹するのに合点」ということですかね。決してマイナスな思考で観たわけではないんですが、少し寂しい出来ではありましたかね。それもこれもやはりジブリ作品という強烈なブランドイメージとの差異がそうさせるのでしょうね。

    そして、次にこの作品『ゲド戦記』に対する問題提起をしたいと思います。最終的にここに帰ってくると思うのですよ、どういう分析をしようとね。そしてこの問題提起は今後のジブリブランドと今回初監督をした吾朗氏への問いかけにもなると思います。

    それは、
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」ということです。この位置づけの仕方によって、最終的な評価が大きく変わってきてしまうように思いますね。ただ、今回この考察記事でその答えを前提にすることはしません、むしろ問題提起のままという姿勢で行きたいと思います、なるべく中立的な立場でしたほうがこの記事を読んでくれるみなさんに核心に触れてもらいやすいかな、とも思いますのでね。

    さて、最初にまず前回鑑賞前に疑問点を「寸感」として書いた記事に対するすり合わせからしてみようと思います。興味のある方はそちらから読んでみてくださいまし。(前回記事:『ゲド戦記』寸感

    疑問点①
    「ジブリアニメ作品=宮崎駿作品という強烈なイメージとの誤差」

    これは最初に述べたように、作品全体のイメージとしてこれまでのジブリ作品の持つ世界観や表現手法、それを体現する重要な要素等を見てみると、「誤差は小さくない」と言わざるを得ないでしょうね。問題提起の部分にも関わってきますが、世界観、表現、ジブリ作品要素もしくはブランド要素いずれをとっても、逸脱しております。では、どこが、どう、という詳細部分は以下で述べたいと思います。

    疑問点②
    「主人公と配役」

    ここにも重要な逸脱がありました。これは作品の物語の部分と大きく関わってくるので、詳細分析は以下で行いますが、配役の構造は180度異なると言えますね。

    疑問点③
    「シュールかつ内省的な精神世界感とナラティブ構造」

    この疑問点に細かく応えることが、きっと考察のメインになるのですが、決してシュールでもありませんでしたし、内政的な精神世界表現が強調されているというわけでもありませんでした。ただ、ナラティブの構造、ここを紐解いていくと、疑問点①へ帰るということになりますかね。この疑問点に関しては個人的予想とは少し誤差が大きかったように思います。

    前置きが長くなってしまいましたが、映画の中身、概して物語・ナラティブ構造を中心に細かく考察してみたいと思います。


    Intermission
    e0039500_17392530.jpg


    まず、これは映画の外、特に製作部分に関わってくる話ですが、アニメーション自体について少し。アニメーションの質というべきか、手法というべきか、表現方法というべきか、わかりませんが、とかく統一性がありませんでした。ある画はとても細かく、そしてある画は「ナウシカ」時代を思わすような平面的なで簡素な画。おなじ人物や背景をとってもシーンによって違うのですね。たとえば、水関連の画。オープニングは非常に原始的で平面的な簡素なセルアニメーションの画。そして同じ海のシーンでも今度は明らかにCGを駆使した透明感あるきめ細かな3Dの画。もう一つ顕著なのは、背景もそうですね。基本的に、背景に関しては細かく描写された画が多かったように思います。しかし、これにもばらつきが観られましたね。キャラクターはともかく、背景などは視覚的な世界観を作るうえで重要となってきますから、ここの表現が統一されていないと、観る側はなかなか世界観を捉えるのに苦労しますし、無意識であっても情報は受けるわけですから、なかなか集中して自己を作品世界へ移入させてもらえないのではないでしょうか。そうすると、なかなか主観的に鑑賞させてもらえない、そしてより客観的に距離を置いて見ざるを得ない。客観的に観ると言うことは、えてして批評的な立場で見る傾向に至ってしまうのではないでしょうかね。これまでジブリ作品にどっぷりと浸かって見てきた観客にとっては突き放されるイメージや感覚があったのではないでしょうか。更にはすでに不評が飛びかってしまっている現段階でそれを予備知識に見る人たちはなお更ではないでしょうか。この画とその表現に統一性があったならば印象や作品イメージは大きく変わってくるのかもしれないな、と観出して数十分で思う、という体験でしたね。

    次に作品の時間的流れと空間について。Time and Spaceと呼ばれるやつですね。これも作品の物語世界観を捉えるためには重要になってくると思いますが、この時間と空間を把握するのが非常に難しい。時間の流れ自体は前後していないことはわかりますが、イベントからイベントまでどれくらいの時間が経っているのか、どう飛んでいるのか、など。空間も、点でしかなく、どれくらいの距離があるのか、同じ空間でも方角の感覚を非常に掴みにくい。これはエスタブリッシングショット、つまり空間を把握させてくれるショットに方向・方角性の統一がかけているために起こるのですがね。つまり、時間や空間を把握するための、記号もしくは情報が著しく欠如しているわけです。そこをある意味シュールと呼んでしまうとそれまでですがね、こうした時間や空間の連続性の欠如はやはり観るものの視点と感覚を遠ざけてしまうように思います。

    お次は、少し物語り・ナラティブ構造についてですが、まずは主人公にまつわる考察から。この作品の主人公は誰でしょう?誰がいるから物語が動くのでしょう?これに瞬間的に答えられる人がいるでしょうか?では、質問を変えて、これまでのジブリ作品で主人公を瞬間的に答えられない作品がありますか?この作品ではどう観てもこの人物が主人公という配役がなされていない。つまり、誰の物語であるのかが非常に分かりにくいわけです。強いて言うならば、3人居るといっても過言ではないでしょうね。もしくは3つの物語が重層的に絡んでいるとも言えるかもしれません。物語をぐいぐいと進めて行く、推進力になっている人物が居ないのですね。ジブリ作品の多くは『ラピュタ』然り、『もののけ』然り、『千と千尋』もまた然り、女の子が主人公でそれをペアになる男の子が存在するわけです。もしくはその逆というのもありますかね、『紅の豚』などはそれです。「ペア」、これが基本です。そのどちらかが物語りをぐいぐい進めて、ペアのもう一人はそれを助ける。時には進める手助けをする、時にはその一人が居ないと進まない。ペアのつながりが非常に強いからです。二人の主人公と言ってもいいのですが、少なくとも物語の視点はどちらかに依存するはずです。ところが、この『ゲド』では、この辺が判然としない。最初は男の子が物語を進めのかと思いきや、突然物語の推進力はこれまでのジブリ作品であったらサポート役のはずのおじさまに取って代わる。そして最後の最後にすべての物語の推進力は実は女の子であったりするわけです。これは、終わってみてあーなるほど、とはなりますが、観ている最中での感覚は、え?、の連続なはずです。ここにも過去のジブリ作品(主に駿氏の作品ですがね)とは一線を画すわけです。決して多重視点と主人公が悪いわけではありません、がしかし、これまでのジブリ作品というイメージと経験が邪魔になるのですね。3者の物語があるために、各々の物語のための因果関係が存在しますし、物語視点の切り替えがうまく行えない場合は、この因果関係の把握が難しくなります。今、誰の物語を語られているのか、どこで自分を作品内に投影させて感情を移入していけばいいのか、人物の物語に対する役割が変わるので難しいかもしれませんね。時には、主人公のように物語を進め、そして時にはサポート役になり、そして時には誰かの物語には誰かの存在は非常に希薄になってしまう、さぁ、これが作り手の意図によるものなのか、はたまた・・・。

    では、少し視点を変えて、上記の項も踏まえましてどういうところが、これまでのジブリ作品を受け継いでいるのでしょうか、そこに触れてみたいと思います。主人公の問題を抜くと、配役はかなり似ていますね。仮に、男の子と最終的にわかりますが女の子が主人公であったとしましょう。そのときにおじさまは主人公を賢く時には厳しく優しく導いてくれる仮初の父親的な像としてガイド役です。そしておばさまは主人公を時には温かく、時には力強く包んでくれる仮初の母親的な像としてバックアップ+癒しの役目です。後者はそう機能していますが、前者は主人公足りえてしまうために、必ずしもガイドに徹した役ではありませんね。言ってしまえば、売れる映画として不可欠な(擬似)家族もしくは(家族構成の一員が欠如した、たとえば母の居ない等の)家族とその冒険という柱は構築されるのです。

    さて、では、これを踏まえまして、少しジェンダーロール、つまり男性・女性の役割を考えて見ます。大抵のジブリ作品は(主人公である)女性が力強く、もう一人の主人公とも言える男性の後押しを受けて物語をぐいぐい引っ張って、最終的には断固たる決意の元に物語のカタルシスとも言える決断と行動をし、最終解決へ至る。これが、『ゲド』では必ずしもそうではない、むしろ逆転している、言い換えれば、古典的な男女の役割となっています。つまり、男は力強く、女はか弱く。これは物理的なものではく、精神的なところまで。特におじさま、おばさまの関係はそうですね。おばさまはすごく従属的。男の子と女の子もある意味そうです。男の子は男性の象徴的な剣を持ち、これに依存します。そして女の子はその男の子の救済となるわけです。大抵のジブリ作品は逆です。女の子がすごく動的・主体的・行動力(攻撃性)が高い。そして男の子は最後の後押し、救済となるべくその媒体・サポート役に回り物語が収束するわけだったりしますが、この辺は『紅の豚』に似ているかもしれませんね。はてさて、『紅』はジブリ作品でも売れた方でしたでしょう~か。

    e0039500_21482331.jpg


    それでは、また少し視点を変えまして、ジブリ作品が持つファンタジー性について。『ゲド』では、魔法という概念が出てきます。そして神話的な生き物『竜』なる生物も登場します。この両者を鑑賞前に聞いたとき、非常に(ジブリ作品として安心できそうな)ファンタジー世界を思い浮かべませんか?そして、それに準じたファンタジーの世界は構築されていたでしょうか。言い方を変えると、『ゲド』の中で不思議な現象ありましたか?非現実ということではなく、(畏怖にも似た)未知なる不思議な世界という意味で。この辺は作品が持つ物語のテーマ的な部分と非常に連鎖しているのですがね。不思議な物・出来事の肝がなかったように思われます。主人公がはっきりしない分、このファンタジーな世界もぼやけてしまったように思います。魔法の世界も、竜の世界も、生と死という混沌とした精神世界も、どれも物語の主役になりきれていないのではないでしょうか。これまで得てして魔法や不思議な現象は物語のカタルシスとして発生していますが、『ゲド』ではどこにカタルシスを求めてよいかがぼやけてしまっていますよね。それもこれも主人公の不透明さと物語の分裂によって起こるわけですが。魔法は、竜は、物語の最終解決となったのでしょうか?男の子の最終解決は?女の子は?おじさまは?世界は?

    それでは、もう少しテーマ性に的を絞ってみましょうか。ここは多少俗に言うネタばれになるかもしれませんが、あしからず。オープニングから暗いメッセージにも似た暴力的な描写から始まります。結果は判然としませんが、「暗い行為」から始まるジブリ作品がこれまでありましたかね。これまで凶暴性が全くなかったわけではないですが、『もののけ』のようにね、しかし暴力には理由がありました、そしてそれを観客は受容できるような形になっていました。それまでほとんど当て擦りもなく、ヒントも与えられず、突如として「個人が抱える死との対面」というテーマが浮上します、それも非常に直接的に、言葉によって。つまりセリフによって説明されて始めて、ああそうなのか、と合点が行くような形。あたかも我々に説明しているかのように。時間や空間が断絶してしまっているように、テーマも階段を上がるごとく構築されて浮き上がるといった形ではなく、断片的にかつ説明的に扉を開けて見せられるといった形で突きつけられます。テーマ性やメッセージ性を観客に唐突に投げるという行為はほとんどされて来ませんでしたよね。言い換えれば、そのテーマやメッセージに正面きって受け取らなくても作品の物語を楽しめるそういう因果関係や発展があったのですが、『ゲド』では、ある一つのテーマを完全に受容し消化をしようとしないと物語が帰結しない。これまではそのテーマやメッセージにある程度の解決が用意はされていましたが、それはそのまま主人公の問題と最終解決というところに結びつく必要がなかったのが、今回は主人公たちの物語の帰結や解決というよりも、メッセージやテーマに非常に直接的で分かりやすい白黒のついた解決を与えて物語の終わりという形をとっています。この辺にも、意識してもしなくても、違和感となって残るように思います。物語が波錠している、と言っているわけではないですよ、これまでのジブリ作品と比べたときに浮き上がる違いです。

    そして、それを踏まえてもう一つ。「死」に対する恐怖やそこからくる葛藤や苦悩、こういうものってどこまで若者に伝わるでしょうか。そういう恐怖や葛藤、苦悩といったものは、自分の肉体が老いていく歳になって初めて体感できるものではないかと思います。物語の最終解決として提示されるのが死に対するものであって、これを消化できなければ、またできない観客は完全に置いていかれてしまう様に思います。それ以前に提示されている「世の中?万物?の秩序の乱れ」ともつながりが薄いために、死もしくは死という観念に対する答えの提示が軽くなってしまい充分な落としどころになりきれていない感も否めません。よーく考えてみると、これまでのジブリ作品では子供でもわかる物語構造と大人がわかってくれればいい付加的なメッセージ性との二重構造が売りであったように思います。これが、『ゲド』では後者のみに特化されてしまった感が否めませんね。果たしてどこまで子供が追って楽しめる物語となっていますかどうか、これは子供に実際に聞いてみないとわからないのかもしれませんが。

    さて、そろそろまとめにかかろうかと思います。ここまで書いてみて、あらためて諸説紛々の根幹となっているのは、主人公の不透明さに尽きるのではないかということですかね。ここが定まらないので、物語の軸もずれる、焦点もぶれる、テーマもつながりきらない、こうしたこれまでのジブリ作品ではなかった内容となっていることに気がつかされました。これを踏まえた上で、あらためて『ゲド戦記』をジブリ作品の一つとして考えたとき、多くの要素や表現が異なることに気がつかざるを得ません。これまである程度一貫されてきたものが、突如そのラインからそれてしまった、逸脱していると言っても過言ではないでしょうね。これを故意に行ったのか、はたまた作り手の違いによる産物か、ここを見極めてみたいように思います。少なくとも、駿監督の専売特許的なものがこの作品からは消えています。意図的であるならば、登場人物のキャラクターやその描写はその限りではないのがまた不思議。あきらかにジブリ作品が描くキャラクター像がそのままそこにあるわけです。アニメーションに関しては映画の外、つまり請け負ったアニメーションスタジオ等の兼ね合いもあるのでしょうが、その辺はまた。

    e0039500_21485239.jpg最後に最初の出発点に戻ってこの考察のまとめとしようと思います。
    「この作品がジブリ作品として枝分かれの一作となるのか、もしくはただの脱線なのか」
    これですが、もう言わんとすることはお判りかもしれませんね。この作品を劇場で見ていて、これまで延々と↑に書いたようなことに思いを巡らせていたのですが、明らかにこれまでのジブリ作品から逸脱した内容と表現になっているこの作品、これまでのジブリ作品とは違ったもう一つの対極的な路線を打ち出したものなのか、それともただ脱線したものに過ぎないのか。前者であれば、非常に興味深く見守りたいわけですが、後者であれば初監督吾朗氏の行く末が案じられます。良くも悪くも、この作品はジブリというラベルが貼られてしまっているわけで、爆弾を抱えて走っている興業となっていますが、この疑問の答えとなるものが次の作品以降見えてくるものと思われます。そうした意味では、楽しみではありますけどね。


    Depper

    参照:
    http://kozoism.exblog.jp/3919793/
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    by corin_depper | 2006-08-20 21:51 | レビューと考察